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 静かに地上を離れるゴンドラ。僕と彼女は向かい合って座った。彼女は窓に張り付き、身を乗り出すようにして下を覗いている。
「いいね。観覧車なんて久しぶり。小学校の遠足で乗ったんだ」
「そうなんだ」
「藤埜くんは高いところ平気?」
「まぁ、大丈夫かな」
「私は好き。ガラス張りのエレベーターとかあるじゃない? ああいうのも楽しくない?」
「うーん……」
「でもさ、ああいうのが設置されてる所って結構人がたくさん乗るから、なかなか見られなかったりするんだよね」
「そうだね」
「藤埜くんってさ」
「うん」
「私のこと嫌い?」
 回りくどいことをする割に、直球勝負をしかけてくるものだ。そのボールを打ち返すべきなのか、あるいは流すべきなのか一瞬の判断に戸惑う。
「嫌いって、今日会ったばかりじゃないか」
「そう? けど最初から、会う前から敵意丸出しだったじゃない」
「人見知りだからね」
 無意識のうちに出た言葉は軽々と自分の気持ちを偽った。目の前に居る人間のことを嫌いだと断言できるほどデリカシーのない人間ではなかったようだ。そのくらいできる人間ならば、こんなにも苦しむことはなかったのだろうけれど。

 観覧車はゆっくりと、巡っていく。


「那須さんは、どうして俺と会おうと思ったの」
「好きになりたかったから」
 そこに何の迷いもない。あらかじめ決めていたかのように真っ直ぐな返答だ。
「好きな人が好きなものを、私も好きになりたかった」
 僕が彼女に会って考えていたこと。マールトの事が好きなんじゃなくて、彼氏の好きな物だから好きになりたいのではないかと思っていた。そしてそれはとても下らない、と。
 きっと、高樹も同じ気持ちでいるのだろう。自分の彼女を、扇浦の言葉を借りるのならば、同率一位の相手にも認めてもらいたい。自分の大好きな二人が仲良くなってくれたら、それはとても嬉しい。だから、彼女と僕を引き合わせようとした。
 それは本当に下らない事だっただろうか。考えてみれば僕だって同じだったじゃないか。
 僕はマールトのCDを誰よりも先に高樹に聴かせた。それはどうして? 自分だけが好きなものは自分だけが知っていればいい。おいしい物はこっそり食べれば独り占めできる。
 それでも僕は自分の自分の味わったあの感動を、僕の大好きな高樹にも味わって欲しかった。二人で楽しみたかった。それと、何が違うんだ。
 僕はCDを聴いてもらっている時、僅かに恐怖を感じていた。僕の感動が否定されてしまったら、それはもう僕そのものの否定と同じ事。その恐怖を、痛みを、高樹が感じていなかったはずがないのに。
「変だよ。好きな人の好きな物だからって、必ず好きにならなきゃいけないってわけじゃないだろ」
「そうだね。だけど、食わず嫌いなんてもったいないじゃない」
 僕が那須さんのことを嫌いなのは、那須さんの人間性ではない。彼女に付随した『高樹の彼女』という一点から連鎖的に勝手な像を作り出し、僕の中の『那須弥生』を嫌っているのだった。
「俺にはそんな価値ないよ」
 こんな最低な人間なのだと知られてしまえば、きっとがっかりされるだろう。軽蔑を恐れ俯く僕に彼女は毅然とした態度で言うのだった。
「価値なんて人それぞれでしょう。マールトが好きな人もいれば、嫌いな人だっている。藤埜くんが嫌いだと思っているものを、好きだって言う人はいる」
「けど、誰もが嫌いだと思うものだってたくさんあるだろう」
「たとえそうだとしても、それを決めるのは私でしょう」
 彼女は何も分かっていない。
 僕の愚かさも、醜さも、彼女は何も。

「那須さんは、あいつのどこが好きだったの?」
 固くしていた表情を崩し、彼女は首を傾げるようにして小さく笑った。
「部長会で隣の席だったの。色々お話したりとか、そうしてるうちに好きになってた。大らかそうに見えて結構デリケートなところとか、鈍感に見えるけど気遣いできて、それで、案外寂しがり屋だったり。そういうところが面白いなって思ったの」
「そう」
「変な理由でしょ」
 変な理由。優しいとかかっこいいとかじゃない。高樹の事をちゃんと理解して、だめなところも良いところも好きになって。色とりどりの照明に彩られた彼女の顔が夜の闇に浮かび上がる。
 上っ面だけじゃなかったんだ。人が人の何を愛おしいか語るとき、人はこんなにも優しい顔をするのだ。
 それならば、誰かを羨む僕の顔はさぞ醜く歪んでいることだろう。窓に映る自分の顔を見ないように、俯いた。
 だから、彼女の次の言葉には驚きを隠せなかった。

「私はあなたが羨ましい」

 羨ましい、と確かに言った。聞き間違いであるはずがない。 
「だって、高校生の恋なんてあっという間に終わりが来るもん。別れたらそれでお終い。青春時代の思い出の、ほんのささやかな一ページでしょう」
 芝居がかった口調は彼女の照れ隠しだろう。しかしその言葉に偽りはない。そういう色が見え隠れしている。
「卒業したら終わりだなって分かってる。生活も環境も変わればすれ違いも仕方がないことでしょ。結婚なんて、私たちにはまだ必要ないことだし」

「けど、藤埜くんは違う。これからもきっとずっと、高樹くんと友達でいると思う。そりゃ、今に比べたら会う機会は少なくなるんだろうけど、ずっと友達でいられる」
「付き合い始めなのに、そんなこと考えてるの?」
「私が現実的すぎるんだと思うよ。けど、間違ってる?」
 間違っているともいないとも言えない。そんなのは結局気持ち次第だ。
「友情だって同じだろ。年を取れば性格も価値観も変わる。今日の友が明日も友とは限らないぜ」
「そうかもね。けどそれは、高校生の恋愛よりは確かなものだよ」
 お互い、そうやって言葉にすることで、心を自傷することで、いつか訪れる喪失に耐えようとしている。最悪の想定が済んでいれば、打ち付けられるダメージも少なく感じられるだろう。相対的に感じる痛みが少なくなっても、痛みに変わりはないというのに。
「私たち、来るかもしれない別れに怯えてるんだね」
「そうだね」
 狭いゴンドラの中は囁くような声でも反響する。隠したい心の声も、痛みを訴える胸の鼓動も、全部相手に筒抜けなのだ。
「私たち、似ているのかな」
「――そうかもね」
 同じものを求めて、同じことを恐れて、お互いを羨んだ。その感情は美しいものではなかったけれど、それだけ僕らは彼のことを大切に思っていたんだ。ただ、彼と離れたくないと言うこと。ただそれだけ。
 醜いのは僕だけではなかった。彼女もまた嫉妬し、恐怖し、僕を羨んでいた。彼の口から出る僕の名を憎くさえ思っていたかもしれない。欲しかったものを手に入れた喜びも束の間、今度はそれと似た別のものを持つ誰かを見つけて、別の形をした幸せを羨んで、そんな卑しい自分のことに嫌気がさす。
 それはきっと、特別なことなんかじゃない。誰もが持っている、あるいは持ちうる一つの側面なのかもしれない。僕が抱いた初めての感情なんて、世の中にはきっとありふれているのだろう。
 なにも特別なことなんかじゃなかった。
「ねぇ、高樹くんのこと聞かせて」
「僕なんかより、那須さんの方が詳しいでしょ」
「そんなことないよ。それに、私が知りたいのは藤埜くんと一緒に居るときの高樹くんのこと」
 そんなことを知ってどうするんだろう。
 僕だったら絶対に知りたくないのに。
「那須さんの前でどんな態度を取っているのか分からないけど、今日見た限りではそんなに変わらないと思うよ」
「そうかな。やっぱり藤埜くんの前だと自然体でいられるんじゃないかな」
 多分そういうところが僕と那須さんの違う所なんだ。好きな人の好きなものを知りたいと純粋に思える子。
 僕の想像なんて邪推もいいところだった。
「変わらないよ。あいつはいつだってそう」
「いつだって?」
「のんきな顔してさ、いっつも笑ってて。こっちがイライラしているのも知っているけど、そんなこと気にしててもしょうがないよって。だけど、自分のことになると」
 それをどれだけ無下にしてきただろう。
「嫉妬していたんだ。大切な人ができた高樹のこと。高樹の大切な人になれた那須さんのこと」
「うん」
「それで、高樹にも那須さんにも八つ当たりをしていた。自分には何の価値もないんじゃないかって、怖かったから。そういう下らない事を考えてしまう自分の醜さを認めたくないから」
 認めたくなかった思いを言葉にすれば、それは思ったよりも体は楽になっていく。余計な力が抜けていき、曇っていた視界が晴れるように意識は透明になっていく。
 はっきりとした視界で那須弥生という人を見る事ができた。
 僕の想像上の、憎むべき彼女ではない。僕と同い年で、同じ人を好きになった彼女。互いが互いを羨み、片方が逃げて片方が追いかけ追い詰めた。想いは似ているけれど、行動は全く逆な、そういうふたり。
 ほんの小さな物だったけれど、そこには絆が生まれつつあった。
 他の誰かから見れば他愛ない、吐息にもかき消さる小さな炎のような。

「高樹のこと、よろしく」
 言いたくなかった言葉を、最後の綱を僕は手放した。体が引き裂かれそうになるほどしがみついていたからだろう。それを放すと、僕の体は重力から解き放たれたように軽くなった。
「うん」
 彼女はしっかりと、深く肯く。手放したそれは彼女の手にしっかりと握られた。
 それはいつかきっと違う誰かの手に渡るのだろう。それでも、今は決して放すまいと、強く強く握りしめている。
「あいつ、意外と自己主張できないからさ。時々、汲んでやって」
「うん」
「笑ってごまかしたときは、きっと何かあるから」
「うん」
「言おうとしなくても、しつこいくらい訊いてあげて」
「うん」
 申し送りは僕と高樹の二年ちょっとで知り得た情報の全てだ。大切な宝物。見つけた原石の土を削り丁寧に払い、出てきた宝石の全てを彼女に託す。
 おかしな話だ。僕と高樹は友達で、那須さんと高樹は恋人なのだ。僕が何も言わなくたって、簡単に見つけてしまうようなことばかりだ。
 それよりももっと素晴らしいものを見つけるだろう。それを分かっていながら、僕は訥々と高樹の事を話した。彼女は泣いている子供の話でも聞いてやるように優しく、穏やかな表情で『うん』と頷き続けた。それが僕にとってはこの上なく嬉しい事だった。
 巡り巡って二人を乗せたゴンドラは地上に近づく。僕が語れる事はこれで全てだ。
「じゃあ、最後に私からも」
「なに?」
「高樹くんのこと、よろしく」
 それは僕が手放したはずの言葉だった。彼女は姿勢を正し、僕を真っ直ぐ見つめながら続ける。
「高樹くんは藤埜くんの事、とっても大事に思ってる。だから私が付き合ってるからって遠慮したり、変に気を遣ったりすると傷つくから」
 分かってる。
「だから、私とも仲良くしてね」
 分かるよ、高樹。君がどうしてこの子を好きになったのか。僕は頷かず、こぼれそうになる涙をそっと飲み込んだ。ゴンドラは水鳥が着水するように優雅に穏やかに地上に向かう。
 出口の先では彼が待っているだろう。そしたら、ちゃんと、笑ってあげよう。
 この気持ちがいつか僕の大切な思い出になりますように。僕だけの贅沢な祈りは、開いたゴンドラの扉から放たれた。
 ほんの短い間に僕のしがらみは少しだけ解かれた。本当に他愛ない、小さな糸口だけれど、そこを辿ればいつかはきちんと解けるに違いない。
 僕と高樹のそれも、那須さんと高樹のそれも 行為の可不可はあれど根本は変わらない。誰かが決めた枠を僕らに当てはめるのはもうやめよう。そこに友達や恋人という名前など必要ない。言葉にならないそれが僕と高樹との関係なのだ。そしてそれは僕と那須さんの関係でも同じことだ。
 先に降りていた高樹が小走りで僕らに近づいてくる。
「大丈夫だったか? 何かされなかったか?」
「ちょっと待ってどうして藤埜くんの心配してるの?」
「藤埜はそんなことしない」
「なにそれ」
「暴言とか吐かれなかったか? 痛いことは?」
 お前ら二人っきりの時は一体どんな関係なんだ。
「何もなかったよ。ただ高樹の恥ずかしい過去を話してただけだ」
「お前……!」
「ごめんね。高樹くんのこと、ちょっと軽蔑している」
「お前何言った!」
「自分の胸にきいてみな」
 僕も那須さんも今日一番の笑顔だった。
 高樹は執拗に二人で何を喋ったのか聞いてきたけれど、ゴンドラの中の戦いは二人だけの秘密だ。
 それは例えば河原で殴り合った二人に友情が芽生えるような、いがみ合っていた二人が強大な敵を前に共闘するような、少年漫画みたいな関係を築けたのかもしれない。
 普通はこういうのって、僕と高樹の出会いに相応しかったんだろう。
 高樹との出会いは全く覚えていないけれど、那須さんと出会った今日のことは一生忘れない。
 那須さんは僕の大切な人ではないのに、だ。




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