NEXT
BACK
MENU




 会場前に二人は居た。とても楽しそうに何事かを話している。
 恋人同士。それはとても甘美で身を溶かすほどに熱いものなのだろう。それを僕はたった一人でぼんやりと眺めていた。
 それに気付いた高樹がにこやかに手を振る。
 僕も軽く手を振って、深く息を吸って彼らの元へ歩み寄る。
 無意識のうちに息は止めていた。呼吸を再び始めたときは、自分でも驚くくらいに朗々と、にこやかに喋ることができた。
「ごめんごめん。何か盛り上がっちゃって」
「遅ぇよ。間に合わないかと思ったし」
「間に合って良かったね。あ、そろそろ開場だよ」
 扇浦のことは聞けなかった。聞く必要もない。用があるのは僕ではなくて、高樹。必要とされているのは高樹だけ。扇浦にとっての一番は、きっと高樹なのだ。
 高樹の一番に慣れなかった者同士という点だけを見れば扇浦と仲良くできるのかもしれないが、こんな僕のことを向こうは良しとしないはず。

 そして僕らは会場へ入る。きっと今まで僕が何をしていたのか、詳しく突っ込まれたらボロが出ただろう。
 彼女は、高樹に何か言っただろうか。僕の拙い嘘について。高樹の様子から見る限り僕が本当に友達と会っていたと信じている。そもそも彼女が気付いているということ自体確証はないのだから、二人は穏便に僕の居ない時間をすごしていたのかもしれない。
 どっちだっていいことだ。どうせ今日を過ぎればもう二度と関わることもない。
 今はマールトのことだけ考えていればいい。音楽に身を委ねればそれで楽になれる。

 爆音と共にライブは始まった。観客の悲鳴にも似た歓声はまるで一つの楽器のように奇妙なハーモニーを生み出している。
 そうだ。それは、僕が初めてマールトのCDを聞いたときに似ている。
 音量のつまみが最大になっていて、思わず肩をすくめたのだった。僕の鈍った耳は、心は、こんな巨大な音にすら驚かない。
 沢山の人がマールトを求めてる。音楽に身を委ねている。会場の一体感が高まれば高まるほど、僕の孤独は深まっていく気がする。
 純粋にリズムに乗る事ができない。メジャーデビューしたマールトはもう僕らだけの音楽じゃなくなっていて、分母が膨大になるにつれ、僕の存在が希薄になるようだった。
 今こうしてライブ会場で立ち尽くしている僕は、もしかすると幽霊なのかもしれない。死んでいるから何も感じない。心が動かされない。
 ただ音だけが流れていく。リズムも歌詞も歌声も、何も引っかからない。
 大好きだったあの歌さえ、僕を癒してくれない。それなら、救いは一体どこにあるんだ? 何を頼りに生きればいい?
 ああそうだ。救いを求めること自体、間違いなのだ。
 暗転する。何もかも。何もかも。


 会場はアンコールの声で一つになっていた。誰もがマールトを望んでいる。もっともっとと、枯れそうになるくらい大声を出して呼んでいる。もういいよ。出てこなくていい。そんな遠くにいるのなら、もう歌わなくて良い。僕らのための歌でないなら、それはとても薄い、他の曲と何一つ変わる事のないありきたりな歌に過ぎないじゃないか。
 アンコールの声は歓声に変わる。
 ボーカルの本多さんは、アコースティックギターを持っている。それに気付いたファンは、声を潜める。



『ぼくがもしも月並みな幸せに走りそうになったら』


  ぼくがもしも月並みな幸せに走りそうになったら
  きみは殴ってでも止めようとするかな
  おおきな怒りをちいさなあめ玉であやすぼくを
  いらだちを煮つめてほほ笑みを生みだすぼくを

  わらうだろうか わらうだろうな

  きみがもしもそのままでいてくれるのなら
  ぼくもそのまま走りつづけていよう
  でもそれもきっとそれもきっとただきみに
  見ていてもらいたいだけのお茶目さ

  わらうだろうか わらってほしいな
 
  きみがもしもいなくなったら
  ぼくはぼくでいられないから
  ぼくはぼくでなくていいから

  ぼくはぼくでなくていいから
  ぼくはぼくでなくていいから
  ぼくはぼくでなくていいから
  ぼくはぼくでなくていいから






 それはアンコールには全く相応しくない、ぐずる子供をあやす子守歌みたいに穏やかな歌だった。僕の大好きだった歌。彼女が一番好きだと言った歌。僕が大嫌いになりかけた歌。
 けれどやっぱり嫌いになんてなれなかった。歌には何の罪もない。マールトにも何の責任もない。元から僕の勘違いだっただけだ。
 マールトが僕らだけのものだなんてあるはずない。デビュー前から知っている人も沢山いて、僕より早くCDを聴いた人も山ほどいて。

 アンコールはたったの一曲だけだった。
 本多さんは『ありがとう』とだけ言って、メンバーと共にステージを去った。アンコールを望む声もあったけれど、会場の誰もがこれで終いだと理解していた。
 セットリストも覚えていない。何もかもに疲れ果てていた。もう僕には何も残されていないような、大貧民で序盤に絵札を全て使い切ってしまったような、そんな心細さと虚脱感に苛まれていた。
 こんな浮かない顔で会場を後にするファンがどこにいる。
 案の定高樹は顔を上気させながらライブの感想を那須弥生に話している。
「超良かったなー」
「本多さんすっごくかっこよかった!」
「うんうん。前より全然安定感あったし」
「アンコール一曲だけだったけどさ、あの曲選んだ辺りもう何も言えないよね」
 二人はもう僕の存在すら忘れてしまったみたいに語り合う。
 それじゃあ、と僕が言いかけたその時、観覧車に乗ろうと彼女は言った。
 二人きりのデートならさぞ盛り上がったことだろう。ゴンドラがてっぺんまで登った時、二人は時計の針のように重なり合う。ロマンチックな情景じゃないか。そこに僕は必要ない。
「俺はここで待ってる」
「だめ」
 彼女は僕のシャツの袖を引っ張った。
「一緒に乗ろうよ」
「邪魔したくない」
「邪魔なんかじゃない。一緒に乗りたいの」
――何なんだこの女……。
 高樹に目で助けを訴えても、彼が気付く気配はない。
「三人で乗った方が楽しいよ」
とすらのたまっている。

 高樹、那須さん、僕の順で列に並んでいる。時間が時間なのでさほど待たずに僕らの順番になった。高樹がゴンドラに入る。那須さんは――続かなかった。
「那須さん?」
「何?」
 彼女は係員に合図し、扉を閉めさせた。きょとんとした高樹の顔が窓から覗いている。彼女は優雅に手を振ってゴンドラを見送った。
「私は藤埜くんに一緒に乗ろうって言ったの」
 僕は背筋に冷たいものが流れるのを感じていた。同時に理解する。
「二人きりで、話、したいじゃない?」
 振り返ったその笑顔だけを切り取れば、きっと和やかなワンシーンに見えたことだろう。下手をすればロマンチックな局面かもしれない。
 だけど、それは開戦を知らせる合図だと僕には分かっていた。
 そもそもどうして彼女がこのライブ会場を選んだのか。
 唯一取れたのがここだった、なんて本当かどうか分からない。
 このすぐ近くに観覧車があるからではなかっただろうか。つまり僕を体よく誘い出すための罠だ。二人だけの完全密室を作り出すためだけに、わざわざこんな遠くの会場を選んだ。
 もしこのチケットが取れなかったらまた別の口実を作って、別の場所で同じ状況を作り出したに違いない。
「乗ろう?」
 宣戦布告。――いいだろう。
「乗ろう」
 乗ってやろうじゃないか、その罠に。僕らは小さな戦場に足を踏み入れた。


NEXT
BACK
MENU

gallery
top