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 見知らぬ街を行き交う人達にとって、僕なんて歩道に敷き詰められたタイルの一つと同じ。沢山ある同じ物の一つでしかない。ネガティブなニュアンスに響く言葉だけれど、今の僕にはとても心地良いことだった。
 僕は確かに僕でしかないけれど、今この瞬間、僕は誰でもないし、誰にでもなれる。
 最近彼女ができて幸せの絶頂だけれど、友達との付き合いが疎かになっている人間にも、友達が一人も居なくて休み時間は部室で一人雑誌を読む日々を送っている人間にもなれる。
 いっそ、僕という人間などいなくなってしまえばいいのに。
 そう思っていた時、携帯が振動を始めた。着信だ。
――高樹からだろうか。
 僕の嘘を追及されるのかもしれない。
電話に出れば友達に替わって欲しい、などと言われるだろうか。
 取り出した携帯のディスプレイには、彼の名前が表示されている。
「扇浦……」
 手が震えていた。扇浦が電話をしてくることなんて今まで一度もなかった。それが何故このタイミングで?
 通話ボタンを押すのを迷っている内に、着信は切れた。
 何の用だったのだろう。
 あれだけ他人との接触を忌避する彼が、僕に電話をかけてくるほどの理由。折り返すべきだろうか。顔の見えない電話ならば、普通に喋れる? 謝れる?
 何て切り出せば良いんだ。
――もしもし。電話くれた?
――扇浦が電話くれるなんて珍しいな
――この間はごめん
 どれも空々しい。扇浦の神経を逆なですることうけあいだ。
 もっと神妙に、などと考えているうちにメールを受信する。もちろん扇浦だ。

『From:扇浦
 Sub: No title
 こんにちは
 電話、失礼しました
 気にしないでください』

 慌てて返信する。現状、メールの距離感が一番良いのかもしれない。

『To:扇浦
 Sub: Re:
 出られなくてごめん。何か用事あった?』

『From:扇浦
 Sub: Re:
 大した用じゃないです』

 大した用じゃないわけないだろう。このままでは話題が終了してしまう。
 僕は急いで着信履歴から扇浦に電話をかける。
『もしもし』
「扇浦? 俺だけど」
『僕ですよ。そして藤埜さんからの着信であることは知っています。画面に表示される文字くらい読めますから』
 相変わらず……いや、今はそんなこと言っている場合じゃない。
「大したことはなくても何か用事があったんだろ?」
『あるにはありましたよ。けれど改めて聞くほど大したことではないというか、逆に折り返し電話されたことによってよりハードルは上がってしまうんじゃないかと思いますけど』
「別にどんな用でもいいよ」
『――できれば誤魔化したまま終わりたかったのですが』
 そこまで言いよどむほどに都合の悪いことだったのだろうか?
 本来なら追及すべきではないのかもしれない。けれどこのまま電話を切るのは嫌だ。
 何も知らないまま通話を終えることはしたくない。そのまま何もかもが終わってしまいそうで、もう二度と扇浦と話せないような気がする。
「何?」
『間違えました』
「は?」
『高樹さんにかけたつもりだったんです』
「どう間違えたんだ?」
 もしかするとこいつ、僕と高樹しか電話帳に登録していないとか……
 登録してあっても連絡を取らない僕が何を言う義理もないけれどこれはひどい。
 しかし『た』行と『は』行では別のタブに別れているはずなので、恐らく登録番号順に表示をしているんだろう。
『お二人のこと、呼び名で登録してるんです。だから時々盆暗だか凡夫だかよく分からなくなっちゃうんですよね』
 ああ、そういえば陰でそんな風に呼んでいるという話を前に聞いたような……って
「お前」
 あれ冗談じゃなかったのか。場を和ます冗談じゃなかったのか。
『ちょっとあの盆暗に電話したいことがあったんですけど、間違って藤埜さんにかけちゃったってだけです』
「いや、お前それ相当酷い事を」
『だから誤魔化したまま終わりたかったって言ったのに』
 確かにあまり知りたくない事実だった。一生知ることなく終わりたい真実だった。
 それだけじゃない。僕には何の用もないのに、高樹には用があるという現実。扇浦は本当に僕なんて必要なかったんだ。
 あの二人きりの世界に僕は安息を覚えていた。それは確かに高樹の代用と思われても仕方のないことだったけれど、それでも僕は扇浦を必要としていて、ささやかなやりとりを楽しんでいた。扇浦もそうだと思っていたのに。楽しまないまでも、悪くは思われてはいないと。
「そっか、うん。それじゃあ切るわ」
『お手数をおかけしました。それでは』
 扇浦の声は不通音に変わる。拒絶の音が、何度も、何度も、繰り返される。僕は携帯を耳から話す事ができなかった。
 哀しい音を、延々と、聞き続ける。それは、僕に、とても、相応しい、音だった。

 力が抜ける。崩れ落ちそうになる。
 順調に僕が一番傷つくことで物事の解決に向かっているのかもしれない。
 僕は、大好きだったあの歌の最後の部分を口ずさむ。

   ぼくはぼくでなくていいから
  ぼくはぼくでなくていいから
  ぼくはぼくでなくていいから
  ぼくはぼくでなくていいから

 こんなに寂しい歌だったっけ。それは確かに切ないような歌だったはずだけれど、こんなに冷たい響きは持っていなかったはずなのに。僕が歌うとどうしてこんなにも胸が潰れてしまいそうになるような歌になるんだろう。
 息も瞬きも忘れ、ただただ悲しい街を彷徨った。

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