→NEXT ←BACK ←MENU 那須弥生。那須さん、と僕は呼ぶことにした。初対面だったし、何よりそれが僕と彼女の正しい距離だと思ったから。 「私、自分の苗字って好きじゃないんだ」 彼女は言った。 「どうして?」 「小さい頃から男の子に茄子茄子ってからかわれてきたから」 「そうなんだ」 それを知ってもなお僕はその呼び方を改めようとしない。これがささやかな嫌がらせとなるなら、それはそれで構わない。 苗字なんて簡単に変えられる。それならその短い間に呼んでおくのも一興だろう。 那須弥生は本当にどこにでもいる、凡庸な女の子だった。 アイロンで伸ばした真っ直ぐのセミロング。二重まぶたに生えているまつげをビューラーで上げて、唇には色つきのリップが引かれている。クラスに必ず三人くらいはいる、おしゃれとかにはそれなりに興味はあるけどあんまり目立つ化粧とか服装とかはできない、みたいなごくごくありふれていて埋没している、けれどしたたかな少女そのものだった。 ライブへ向かう格好ということで服装は比較的ラフなものだったが、街中でも浮かないようよく気を遣われている。 ロックなんて聴くような感じの子には見えない。ただ自分の彼氏が好きな物だから、自分も好きになりたいっていうだけなのだろう。けなげとも言えるが、僕から見ればただの馬鹿だ。高樹はどうしてこんな子を選んだんだろう。ああ、違う。この子から告白してきたんだった。そうだ、高樹は告白されたからそれを了承したに過ぎない。口を開けていたらお菓子を放り込まれたから、それを食べたというだけだ。本当は誰でも良かったんじゃないか? 本当は好きでも何でもないんじゃないか? そうだ。思春期の男子なんて性欲の塊みたいなものじゃないか。それなら、 「藤埜くんはどの曲が一番好き?」 「――――え?」 「マールトの曲の中でどれが好き?」 高樹と彼女の会話はほとんど聞いていなかったけれど、どうやらそういう話の流れになっていたようだ。 「うーん、そうだなぁ」 そんなのは決まってる。『ぼくがもしも月並みな幸せに走りそうになったら』だ。 マールトの中では異色な作品ではあるけれど、だからこそ光り輝いて聞こえる。 タイトルを口にしようとしたとき、彼女の口が先に開いた。 「私はねぇ、ぼくがもしも、かな」 「――ぼくがもしも月並みな幸せに走りそうになったら?」 「そうそう」 彼女の言葉と僕が頭に思い描いていたタイトルとが一致してしまった。サァッと音を立てて体温が引いていく。もしかしたら僕が居ないところでそんな話をしていたのだろうか。マールトの歌を聴きながら、僕が好きだという話を聞いていたんだ。 それだけじゃない。彼女はこの歌のタイトルを略していた。 長すぎるタイトルだと、たった六文字に縮めて後は全て捨て去った。 僕が大好きだった『ぼくがもしも月並みな幸せに走りそうになったら』を汚されてしまったような気分だった。 そして、あれだけ強く惹かれていた曲が急速に色を失っていく。 「あぁ、あれもいいけどね。特にこれっていうのは、ないかな……」 『デバウア』も大好きだったし、他にも好きな曲はたくさんあった。 けれどもう何を出してもどんな感想を言われても踏みにじられてしまう。これ以上僕の大切な物を奪われたくはない。 「そうなんだ」 沸騰した湯を飲み干したような気分だった。偶然の一致だろうか。そこまで多くない曲数だから、好きな曲が被る事なんて珍しい事じゃない。 けど、そこには何かしらの意図があるように思えて仕方がない。僕が一番好きな曲のことを知っているのは高樹だけ。 二人きりの時、僕の名前が挙がったのだろうか。そしてマールトの話をしてる中で僕が好きな曲の話題になったのだろうか。僕が居ない、二人きりの場所で。 それだけ? もっと何か僕の話をしたかもしれない。最近少し距離を置かれていることを彼女に相談したかもしれない。 だから、彼女は僕と高樹の仲を取り持とうとした? もしそうだとしたら余計な世話もいいところだ。そうやって僕に取り入って、高樹の心象をよくして、二人の絆を強める。そういう道具として扱われているだけなんだ。 最悪。 そして最低な奴だ。 こんな穿った発想に至る僕は、最低だ――。 チケットが取れたのは僕らが住む街から遠い場所の公演だった。海が近く、大きな観覧車が有名だ。 考えてみればデートにはぴったりではないか。 僕が居なかったら二人きりでこの観覧車に乗れたかもしれないのに。 夜景を望むゴンドラで二人きり。キスの一つもするんだろう。 いや、キスなんて、二人にとっては、珍しいことでも、なんでも、ないのだろう、けれど。 「開場まで時間あるし、どっかで茶でも飲む?」 「そうだね。近くにあればいいけど……:」 「これだけでっかい街なんだからどこかにあるだろ」 「大きい街ってことはそれだけ人も沢山いるって事だから。案外ゆっくりできるところってないんだよね」 「藤埜ってこっちの方とか来たことある?」 「…………いや」 「そうだよね。こっちの方ってわざわざ来ないと用ないもん」 「俺遠足で来たことあるよ」 全部僕を抜きにしても成立する会話。それだけならまだしも、会話の端々で僕に話題を振ってくる。それを僕はうまく返すことができなくて、高樹か那須さんのどちらかがフォローを入れて。 そんな中途半端な優しさが、人を傷つけると知らないのだろう。 扇浦の姿が脳裏に浮かんで、胸がきりりと痛んだ。 こんな気分で、本当にライブが楽しめるのだろうか。 僕らが入ったのはデニーズだった。それなりにキャパシティがあって落ち着ける場所となると数は限られているので、ファミレスはうってつけの場所だ。 「いつもはサイゼのくせに」 「何?」 「何でも」 別にきっと深い意味なんてないのだろう。ただそこにあったファミレスが偶然デニーズだったというだけ。彼女と一緒だからなんて理由ではないだろう。 確かにおいしいけれど、値段は結構するし、ドリンクバーは店員に注文するスタイルだし、座っていてもなんとなく落ち着かない。 「何か軽く食べておくか?」 「うん、途中でバテちゃったら嫌だしね」 「何にしようかなー」 「藤埜くんは何にする?」 「…………」 「藤埜?」 「いらない」 「まだお腹空かない?」 気遣う振りなんてやめてくれ。そんな言葉は欲していない。 「――食欲なくて」 「何だよ、藤埜。緊張してんのか?」 「そうじゃないよ」 今は何を食べてもおいしく感じないという、ただそれだけのこと。早くライブが始まればいいのに。時計を見ても、まだ二時間近く時間がある。何か適当に理由を付けてギリギリに来れば良かった。そう、何か理由を付けて。 おもむろに、僕は携帯を開く。 「ごめん」 二人はメニューを開く手を止めて僕を見る。 「ちょっと席外してもいいかな。中学の時の同級生が近くに来てるんだって」 「そうなの?」 きょとんとした高樹の顔を極力見ないようにしながら、僕は嘘を塗る。 「うん、卒業してから会ってないし、ちょっと顔見るだけ見てくるわ」 「それならこっちに呼べばいいじゃん」 「いや、悪いからいいよ。それにそんなに時間掛からないから」 下手な嘘だ。高樹はともかく彼女には見透かされていたのかもしれない。 「行ってきなよ」 彼女のその言葉も何もかも分かった上で言っているように聞こえた。子供のつく嘘に調子を合わせる大人のように、余裕を持って紡がれる言葉だ。 「お友達によろしく」 「ありがとう」 自然と僕の言葉は固くなる。嘘を塗り固めた隙間につけ込まれないよう、身を強ばらせる。虚ろに笑い、うつむきがちに席を立って外へ向かった。 僅かな間でも二人から解放されるのは気分が楽になる――はずだったのに。 こんなにも惨めで、こんなにも哀しい。こんな気分になるのなら、逃げ出さなければ良かった。 だいたい、中学の頃の友達なんてほとんど連絡をとってない。 同じ高校に進んだ奴はいなかったし、同窓会も何度か開かれているみたいだったけれど、特別会いたい人がいたわけでもなかったし、遠慮させてもらった。 携帯のアドレス帳を開いた。もうずいぶんとやりとりしていない人の名前がずらりと並んでいる。 今この瞬間に全てを消してしまっても、さほどの不自由はないだろう。 そういう付き合いをしてきたし、そういう付き合い方しかできなかった。 だから、高樹は僕にとって一番大事な人だった。 扇浦志郎。 彼の名前が目に留まる。 『僕は高樹さんの代用品じゃありません』 彼の言葉が胸の奥で疼いている。あれから今日に至るまでの数日、扇浦とは一度も顔を合わせていない。あまりに申し訳なくてどんな顔をすればいいのか分からないから。 扇浦との日々が退屈だったわけじゃない。暇つぶしなんかではなかった。 けれど彼は、僕と会話をしながらずっとそんなことを考えていたのだ。代用品にするつもりはなかったけれど、代用品にしていると思われても仕方ない。 結局今扇浦の声が聞きたいと思ったことだって、自分の寂しさを紛らわせるために他ならない。そうやってまた扇浦を利用しようとしている。 「ほんと、どこまで馬鹿なんだよ……」 誰の顔も見たくない。誰の目にも触れたくない。僕は雑踏の中に消えていった。 →NEXT ←BACK ←MENU |