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 僕と高樹の関係は相変わらずぎくしゃくしたままだった。僕が変に意識している上に、彼自身どうやら彼女と交際していることを引け目に感じているような節がある。高樹が悪い訳じゃないのに、高樹に気を遣わせてしまっている自分がどうにも腹立たしく、それで余計に僕は高樹との距離を置きたくなった。
 僕も高樹も、意味の分からない罪悪感から逃げているのだ。

 けれど逃げる事で、距離を置くことで僕らの中に別の誰かとの関係が築かれるのなら、それは決して悪いことではないはずだ。現に高樹と彼女が上手くいっているように、僕と扇浦は前よりもぐっと仲良くなっている。
 今やことあるごとに部室に顔を出すことが日課となっていた。
 あの独特の嫌味も慣れてしまえば大したことはない。彼自身本気で言っているのか怪しいものではあるのだし、彼なりのコミュニケーションの取り方なのかもしれない。
 扇浦と顔をつきあわせるお昼だって、気まずさはもうない。

「扇浦はもう『アイ』のテーマ、決めた?」
「ええ、もちろん」
「どういう字?」
「悲哀の哀です」
「……哀れっていう字?」
 はい、と躊躇うことなく肯定する。
「被写体は勿論高樹さんです」
「そんなテーマの被写体に選ばれること自体が哀れだよ」
「そうですか?」
「そりゃ、いろんな漢字が当てられるように、っていうテーマだけどさ……」
「バラエティに富んでいた方が良いでしょう。美しくて優しいものばかりに満ちた世界なんて気持ちが悪いですよ」
「お前のだけ浮きそうだけどな」
「それだけ偉そうなことを言っているのですから、藤埜さんはさぞご立派なアイデアを見つけてくれるのでしょうね」
 思わぬ反撃が返ってきたものだ。
「ごめんごめん」
 アイというテーマを連想してみても、単純に愛という言葉しか浮かばない。けれど、今の僕にそんな写真が撮れるとは思えない。僕に相応しいのは扇浦が選んだ『哀』という字かもしれない。それを積極的に受け入れることもできず、宙ぶらりんのまま。
「単純に考えれば愛情の愛なんだろうけどさ。それもなんか違うなって思うんだよ」
「沢山あるじゃないですか。藍色なら夜明け前の空でも撮ればいいですし。漢字じゃなくたって良いのでしょう。自分、という意味の『i』だって選択肢の一つなのでは」
「あぁ、そういうのも有りか」
「どうです。セルフポートレートを壁一面に貼り付けるというのは」
「気持ち悪いだろ、それ」
「僕は見てみたいですよ」
「――俺のセルフポートレート?」
「それを見てどん引きする人々の顔」
「冗談きついぜ」
 僕と会話を続けるための冗談であると信じたい。それにしたって『愛』も『i』も見失っている僕に一体どんな写真が撮れるというのだろう。
 作品のテーマとして優れているかどうかはさておいて、哀というテーマは扇浦らしいと思う。王道を避けてひねた選択肢を選ぶ。
「扇浦って携帯にストラップつけないんだ」
「別にポリシーがあってつけていないわけじゃありません。ただわざわざ買ったりするのは馬鹿らしいからというだけですよ」
「ふーん」
「結局あれって何の意味があるんです?」
「自分のものっていうアピールなんじゃないか? 他人との差別化みたいな」
「はぁ。けどそうまでして自分の所有物であることをアピールする必要あります?」
「そりゃ、ないって言ったらそれまでだけど。ただ、自分のものっていう感覚は強くなるんじゃないか?」
「理解できない話ではありませんが、得心はいきませんね」
「じゃあ俺があげたら付けてくれるわけ?」
「――付けろと言われたら付けますよ」
 こんな風に時々からかったりする時もあれば、何も言わずにただ座っている時もある。けれど、ここに来始めた時のような気まずさのようなものはない。向こうから接触してくることはないけれど、こちらからスイッチを入れれば朗々と暴言を織り交ぜながら返答してくれる。さながらおしゃべり人形のごとく。

「おっす」
 声が聞こえた途端に箸でつまみ上げたミニトマトがぽろりと落ちる。

「こんにちは高樹さん」
「やっぱここに居たか」
「――よう」
「どうしたんです? 彼女とお昼を食べているのではなかったのですか?」
 胃液がせり上がってくる。
「次の時間体育だから、早く着替えないといけないんだと」
「そうですか」
 扇浦はちらりと僕の方を見た。ような気がした。それはとても一瞬で、僕に気取られないよう気をつけた、みたいなものだった。僕もそれを気付かなかったことにして、弁当箱の蓋を閉めた。ふりかけのかかったご飯は半分残っていて、おかずもまだあった。けれど、食欲はもうない。
「高樹さんは携帯にストラップを付けますか?」
「ストラップ? うん、付けてる」
 知っている。青地に白の文字で『K』と書かれたシンプルなストラップ。もちろん彼のイニシャルを意味する意匠だ。
「へぇ、ずいぶんかわいらしいものつけてるんですね」
 僕が知っているストラップはお世辞にもかわいらしいとは言えないものだったはず。
 僕の隣で揺れるストラップ。黒い携帯に通された黒い紐のその先にある、絶望。
 変化していく。消えていく。僕の知っている高樹が全く別の人間になってしまったような錯覚。
 そんなことがあるはずはないのに。けれど、オセロの隅を一つ取られてしまったかのような、はっとさせられる、致命的な一手を僕は見た。
 それは世界で一番有名な猫のフィギュアが付いたストラップ。地方土産の限定品らしく、猫でありながら狐の皮を被っていた。とてもありがちではあるけれど、確実に高樹の趣味ではない。
「もらったんだよ」
 変化していく。知らない人になっていく。そして僕は置いて行かれる。
「誰に?」
 聞くまでもないことを、扇浦は確認する。さながらオーバーキル。嗜虐とさえ言える。
 本当ならばその効果は高樹に対して発揮されたのかもしれない。冷やかし。からかい。扇浦が拳銃だと思っているそれは、僕にとっての散弾銃だった。破片が僕に突き刺さる。
 高樹は答えることなく笑った。
「お熱いことですね」
「まぁ、な」
 何か言わなくては。このまま黙っていたら変に思われてしまう。何か。何を。何を言えば良かったんだろう。

「良かったじゃん」

 そう言ったことでその場の空気はかえって緊張が走ったようだ。
 棘がある言い方だったろうか。努めて優しく言ったつもりだったけれど、そんなことは見透かされていたのだろうか。
「付き合いたてなんだもんな。それが、普通なんだもんな」
 普通だろう? 変な事、言ってないだろ?
 それなのにどうしてこんなに虚しく響くのだろう。
 感情も何もこもっていない言葉。溢れそうな想いは全て閉じ込めているせいなのか。
「いいなー。俺も彼女欲しいな。高樹みたいにいちゃつけたら、楽しいかな」
 高樹は笑ってくれなかった。凍り付いたような、腫れ物に触るような、地雷原を歩いているような、親の機嫌を伺う子供のような、そういう、いたたまれない表情のまま視線を泳がせている。それが、とても腹立たしい。
「扇浦は欲しいとか思わないの? 彼女」
「思いませんよ」
「好きな子とかは?」
「……いませんって」
「何だよつまんないなぁ」
 自分が何をしたいのか全く分からなくなってきた。何もかも空回りで目が回る。空気はただひたすらに重く張り詰める。坂道を転がるビー玉のように、際限なく転がり落ちる。
「やっぱ彼女とか居ると毎日楽しい?」
「――楽しいって、いうか」
「毎日一緒なんだもんな。受験とかも楽しく乗り切っちゃうんだろ?」
 返答すら返ってこなくなった。萎縮し、俯き、顔を引きつらせる。笑い飛ばせばいいじゃないか。自分はこんなに幸せだと、胸を張ればいいのに。
 子猫でも蹴飛ばしたらこんな気分になるだろう。無抵抗な相手を一方的に虐げる。こんなに楽しくない事がこの世の中にあるなんて。
「ちょっとトイレ」
 そう言って凍える部室を抜け出した。
 唇を噛んで、拳を握りしめて、俯いて、早足でトイレへ向かう。どこまでも惨めで哀れな生き物だ。
 こんな醜態をさらし続けるなら、いっそ正直な気持ちをぶちまけてしまえばいい。そして嫌われてしまえばいい。そうすれば僕は自分の気持ちを偽ることもなく、苦しい思いをしなくていい。
 もう二度と仲良くすることはできないかもしれないけれど、中途半端な現状よりはいくらか立ち直りは早いだろう。ちゃんと諦めることができるのだから。
 高樹が青春を謳歌するのと裏腹に、孤独で寂しい高校生活を送ることになったとしても。
 本当はそんな覚悟もない、臆病な奴だ。
 ならばどうしたいんだ?
 高樹と、どんな関係でありたいんだ?

 僕はただ、今まで通りでいたかった。
 普通に挨拶して、普通に話をして、普通に側に居る、ただそれだけでいい。
 そして彼は極力普通にしようとしている。けれどやっぱり彼には他にも優先したいことがあって、それは僕の日常の一片を壊すものだった。
 だから何だっていうんだ。友人との関係を優先して欲しいから彼女を作るな、などと言えようものか。
 高樹は何も悪いことをしていない。高樹の彼女も何も悪くない。ただただ僕が一人で相撲を取っているだけ。
 勝手に不機嫌になって、勝手に距離を置こうとしている。

 最悪、という言葉すらも僕の愚かさを語るのに足りない。手洗い場の鏡に映るそいつの顔は苦痛でひどく歪んでいた。
「大丈夫」
 目を閉じ、深呼吸をして、そんな言葉を吐き出してみた。
 言葉は魂。口にすればきっと本当になるはずだから。大丈夫、大丈夫と繰り返す。
 握りしめた拳を開いてみると、手のひらには赤黒い爪の跡が痛々しく残っていた。それを自覚した途端に痛みは強まるが、その痛みもまた僕を落ち着かせる。
 だいじょうぶ。僕はきっとだいじょうぶ。

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