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 呼吸を整えてから入った部室に、高樹の姿はなかった。昼休みが終わるにはまだ早い。
「高樹は?」
 鋭い目つきで僕を眺める扇浦は、まるでテレパシーでのコミュニケーションを図っているように口を開かない。僕とのチャンネルが合わないことに諦めたのか、一つ溜め息をついてから口を開いた。
「教室に戻ったんじゃないですか?」
「じゃないですかって……」
「死神に肩叩かれたみたいな顔して出て行きましたよ」
 僕のせいだと言いたいのだろうか。視線はこちらを向いてはいないけれど、僕を責める気配は針のように貫き、軽蔑の糸を縫い付ける。
「――何かさ、高樹、変わったよな」
「と言いますと」
「彼女ができて調子乗ってるっていうか、さ」
「調子」
 まるで診察でも受けているみたいだ。興味なんてなさそうに装いながらも僕の中の病んだ部分を探ろうとしている。そして僕自身も治癒を望んでいるのだろう。解決なんてしなくていい。ただ、それで少しでも楽になるのなら。
「それならそれでいいんだよ。けど、変に気を遣ってるみたいでさ。俺に何を遠慮してるんだろうな。彼女がいないって、そんないけないことなのかな」
「そんなことはないと思いますよ」
 それはどの部分を否定しているのだろう。
「世の中の恋愛至上主義というのは些か過剰に過ぎるとは常々思っています。種の繁栄として最優先すべき事柄であることから鑑みて、その価値観が正しい事であることは認めざるを得ませんが、だからといって万人にその価値観を押しつけるのはあまり褒められたことではありませんね。巻き舌ができない人にお前は人間として劣っていると言うようなものです」
 でも、と一呼吸置き、言葉を続ける。
「高樹さんはそういう人ではないと思いますけど、その辺りはどう考えていらっしゃるのですか?」
「だから、変わったって言ってるんだよ」
「本当に?」
 僕が俯くと、視線はどちらも下を向いてしまった。向かい合っているのに見つめ合わない。話し合っているのに噛み合わない。何かがずれた、僕たち。
「藤埜さんが避けているからでしょう」
 当たり前なことをと言わんばかりに扇浦はため息をつく。
 誤魔化す事なんてできないのかもしれない。
 扇浦ならば、こそんな僕でも仲良くしてくれるだろうか。何もしてくれなくて良い。ただこの部屋にいさせてくれるだけだっていい。むしろ今の僕にはつかず離れずの関係性という物を心地良く思っている。
 こんな醜い僕でも、もしかしたら扇浦は「そんなことどうでもいい」と一蹴してくれるかもしれない。いつものあの淡々とした口調で辛辣なことを並べられた後、けろりとした顔で普通に接してくれるかもしれない。
「高樹に、彼女ができてさ」
 言葉を慎重に選ぶ。誤解を与えてはいけない。何もかもを明らかにしてはいけない。
「やっぱり寿司とステーキとで明確に順序を付けてるんじゃないかなって思うんだ」
 それは前に扇浦が喩えた話。優先順序が下がったわけではなく、同率一位が増えただけという現状を例にした物だ。
「俺がステーキだとしてさ、やっぱり寿司には敵わないんだよ」
 それはもうジャンルを明確に分け隔てるもの。変えられぬ属性。叶わぬ現実。
「それで」
「うん?」
「寿司が食べられないから手近にあったラーメンを食べようとする人間についてどう思います?」
「どういうこと?」
 それはあまりにも普段と変わらぬ語調だった。ぶっきらぼうで不機嫌で、起伏の少ない口調。だからはじめのうち、僕は何てことないいつものやりとりに過ぎないと思っていた。

「僕は高樹さんの代用品じゃありません」

 明確な拒絶だ。扇浦は怒っている。いつだって隙あらば辛辣な言葉を投げかける彼ではあるが、今彼が放った言葉はそれと全くの別物。嫌悪感。抗議。拒否。明確な意思表示だ。

「そんなつもりじゃ」
 言葉が喉の奥で詰まった。
「ない」
 唇の隙間から漏れ出るように力ない語尾だった。
 そんなつもりはなくたって、これはどう見てもそういうことだろう。
 高樹が僕の手元から離れてしまったから、代わりに手近にいる扇浦で自分の寂しさを紛らわせている。否定のしようがない。
 友人関係に序列をつけている。親密度で差を付けて、差別して、蔑ろにしている。

 最低。
 一体何様なんだ。
 自分のエゴで扇浦を傷つけた。
「どうして藤埜さんは高樹さんを避けているんですか? 彼女が出来たから遠慮をしているんですか? けど別に遠慮する必要なんてないですよね? だって彼女と友達は全く別の問題でしょう?」
「……わからない」
 分かっていても言えない。こんな気持ちを誰かにぶつけるなんてできない。これ以上僕の醜さを扇浦に知られたくない。
 これだけ散々酷いことをしてきてまだ自己保身を考えている自分にはほとほと呆れたものだ。
「変ですよ。最近の藤埜さん」
 そんなこと自分が一番よく分かってる。よく分かってるから分からないんだ。これ以上、なにも分かりたくない。
「――ごめん」
「謝って欲しいわけじゃないことくらい、分かっていますよね」
 けれど、ごめん以外になんと言えばいい。
「言いたいことがあるならはっきり言ってしまえばいいんですよ。その後どうするかを考えるのは高樹さんですし、どうせあの人はさらっと受け流しますよ。バカですから」
「そうじゃないよ」
 もし正直な気持ちを話したらどうなるんだろう。受け入れてくれるのだろうか。こんな傲慢な気持ちを。
 そしたらどうなる? 高樹は、僕だけのものになるのか? それを僕は喜ばしく思うのか?
 そんな事あるわけがない。ならば僕の気持ちを打ち明けることには何の意味もない。
 ただ僕がふて腐れて、子供のように駄々をこねているだけ。
「ごめん」
「藤埜さん?」
 謝罪の言葉など何の意味も持たないと分かっていても、口に出さずにはいられない。
 僕は静かに席を立ち、部室を後にした。
 何も言い返すことができない。ただあふれ出る感情を制御できないでいる僕には確かな理論武装などなにもない。丸腰で誰かと向き合うほどの度胸もなく、ただ逃げるだけ。

 夢遊病でも患っているかのように覚束ない足取りで廊下を歩く。すれ違った誰かから見れば、きっと滑稽な姿に見えたことだろう。
 笑ってくれればいいさ。他人事のように。自分は違うと。見下して。
 僕だって、ついこの間まで彼らと同じ立場に立っていた。誰かを笑う立場だった。
 扇浦のことだって、友達の居ない寂しい奴と見下していた。高樹の事だって本当はどこかで馬鹿にしていた。
 それはとても楽に自分の価値を上げられるから。
 絶対値ではなく相対値。そこに本当の価値なんてありはしないのに。


 教室のドアがとても強固に立ちはだかっている。絶望的な境界線の向こう側に高樹は居るはずだ。けど、彼の隣は既に僕のテリトリーではなく、顔も知らない『彼女』のものだった。
 金色に輝く椅子は茨のように僕を拒む。その痛みに耐えることが罰なのだと、僕はそう決めたはずなのに。
 結局は扇浦の所に逃げて、扇浦すら傷つけた。
 臆病で卑怯な僕は、そんな痛みには耐えられなかった。
 他人の痛みには鈍いくせに、自分の痛みには過剰に反応する。つくづく嫌気がさす。
 誰の隣にも居る資格などないのかもしれない。高樹のように愛される事もなければ、扇浦のように孤高でもいられない。
 愛されるに相応しい物を持ち合わせていない癖に、誰かを求める。みっともないだけの人間。
 僕が手を触れるまでもなく扉は開いた。易々と。軽々と。
「うわっ」
 クラスの生徒が僕を見て驚く。きっと幽霊か何かに見えたんだろう。
「何してんだよ藤埜」
「高樹、居る?」
「高樹? いや、いないけど」
 ほっと胸をなで下ろす。どんな顔で彼と向き合えば良いのか分からない。いっそこのまま早退でもしてしまおうか。
 そしたら、どうなるんだろう。もっと、気に病むだろうか。
 気に病んだら、どうしてくれるっていうんだ。
 何も、変わりはしない。変わってしまったものはもう戻らない。

「悪いな」
「大丈夫か? 顔色悪いぞ」
「大丈夫」
 心配などしてくれなくて良い。これは、自業自得なのだから。
 ふらふらと席へ向かい、へたり込む。
 何もかもがやめられるのなら、この瞬間にやめてしまいたい。
 万事が万事煩わしい。隕石でも恐怖の大王でも今すぐ降りてくれば良いのだ。
 机に額を軽く打ち付け、目を閉じた。
 チャイムの音が聞こえる。きっともう高樹は戻ってくることだろう。
 けれど、僕に話しかけることはないはずだ。

 ひやりとしたものが頭の上に当たった。
「寝てんの?」
 顔を上げると、赤いラベルのボトル缶。それを両手に持って、少し困ったように微笑む高樹の顔。
 ああ。そんな顔で笑わないでくれ。
 僕はいま、奈落の上に吊されたロープに首をかけているのというのに。

 高樹。

 僕は。
 僕は君が好きだ。どうしようもなく、ただひたすらに君が好きだ。
 大好きなんだ――――。



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