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「マールト全国ツアー! だって」
「そうなんだ」
「都心の方とかでやるんだろ?」
「まぁちょっと遠出することになるかもしれないけど。でもさ、また従兄の所に泊まらせてもらえるように頼んでみるし」
「任せた」

「チケットって取れるのかなぁ」
「どうなんだろう。最近取りづらくなってるって話は聞くけど」
「じゃあ早めに取っておかないとな」
「だな。いつから発売? つーかいつやんの? またテスト中とかになったら嫌だぜ」
「えーっと。うん、再来週」
 発売が近いな。
「へぇ。で、ライブの日程は?」
「いや、ライブの日程がその日……」
「………………」
「………………」
 言葉が出なかった。
「…………次は、さ、一緒に行けたらいいな」
「うん」
「従兄もさ、また部屋使って良いって言ってるし」
「そっか」
 それはとても残念な事だったけれど、ほっとしている自分もいた。
 マールトのライブは機会に恵まれず、あの日から一度も行っていない。久しぶりの生マールトに期待は高まるけれど、今高樹と二人で行くことになったとして、きっと純粋には楽しめないだろうから。約束した『次』だって、本当にあるかどうかは分からない。
 マールトの新譜は文句なしに良かった。そう、文句はない。けれど、僕は二回通して聴いた後、そのCDをケースへとしまった。心躍る感覚がないのは、僕自身の心に問題があるのだろうか。
 それともマールトの音楽は早くも形を変え、僕の心から離れてしまったということか。

 初めてマールトのライブを見た日から一年近くしか立っていないというのに、僕らの有り様はずいぶんと変わってしまった。
 僕と高樹の距離は次第に遠のいていく。二人でいるのはせいぜい授業の合間の休み時間と、部活のある日くらいのもの。登下校も一緒ではない。彼女は僕らと逆の方面から通っているので、登下校は一緒じゃなくて良いとは言っていたけれど、学校から駅の間だけでも一緒にいられればきっと楽しいことだろう。だから僕は遠慮することにした。早めに登校して部室へ直行し、予鈴ギリギリに教室へ戻る。それが今の僕の生活。
 寂しいか寂しくないかといえば、寂しい。けど、仕方がないだろう。どうしようも、ない。

「よう、扇浦」
「こんにちは。って朝もお会いしたじゃありませんか」
 今日は部活の活動日だったが、高樹は部長会に出席している。彼女と隣の席でよろしくやっていることだろう。しかし文化祭が終わるころには部長は扇浦に交代となることが規定事項だ。そうなったら、この部室には僕と高樹の二人きりになってしまうのだろうか。彼女を連れ込む、なんてことはあまりしてほしくないけれど、あり得ない話ではない。安寧の地も、いつ崩壊するか分からないのだ。
「で、今日は何を読んでるんだっけ」
 本当に見境のない本のチョイスではあるが、最近の傾向としては女性誌であることが多い。どうやらコーナーごとに端から選んでいくようだ。ランダムだと思われた中にある程度の法則性を見つけられると安心感を覚える。
「anan 二人で感じるセックス大特集」
 見境がなさ過ぎる。
「恥ずかしくないのか? そういうの買うって」
「そうですか? 生殖行動に羞恥心を抱くのは人がそれに生殖という目的以外の」
「いや、やめよう。この話はやめておこう」
 持論の展開を妨げられた扇浦は不服そうに眉をひそめているが、この話題をこんな語調で延々と聞かされるのはご免被る。年相応な猥談ならまだしも。
「っていうか、どんな内容なの? それ」
「童貞には刺激が強すぎるのでお見せすることができません」
「いや、お前もだろ……」
「おや、知った風な口をきくのですね」
「だってお前付き合ったことないって言ってただろ」
「付き合ったことがないからと言って肉体関係を持ったことがないとは限らないじゃないですか」
 え?

 え? いや、そうだけど。
「まじで? あるの?」
「……ありませんよ」
 ねぇのかよ。
「しかしどうなのでしょうね。早々に童貞を捨てることが偉いという風潮って」
「――まぁ、な。人より早いっていうのを自慢したい気持ちは分からないでもないけど」
「飲酒や喫煙でも同じ事が言えますけど、適切な時期に適切な方法で、というのが一番人の成長に正しく影響すると思うんですよね。他人より早く経験すること、多く経験することが偉いのだとしたら、人を殺して自殺するのが一番偉いってことになりますからね」
「最後のは極論すぎると思うけど、だいたい正論だっていうのはなんとなく分かるよ」
 扇浦は一体何を悟って生きているのだろう。一人きりだったこの部室ではきっと色々な事に考えを巡らせていたに違いない。孤独は哲学を生む。きっと僕が高樹と下らない話で盛り上がっている最中、彼は孤独の中で本を読み、あらゆる知識を吸収しながら彼なりの思想を生み出していたに違いない。
 そんな彼が今読んでいる本はエロ本まがいの雑誌なわけだけれど。
 一体何の思想が芽生えるのだろう。
「扇浦って、誰かを好きになったことがある?」
 それはただの好奇心だった。ロボットのような彼にも人らしい感情はあるのか、誰かを慈しむ心はあるのか。
 純粋に興味があったのだ。
 以前、彼は彼女と付き合う高樹の心情について解説してくれた時には「一般論」などと言っていたけれど、果たして本当にそうなのだろうか。
 誰かを好きになったことがないのならば、たとえ書物で仕入れた知識でも理解することなどできないはず。
 否定か罵倒か、どちらかはすぐさま返されるだろうと覚悟していた。ひょっとしたら肯定が返ってくることも少しは考えていた。けれど扇浦の反応は、沈黙だった。
 顔を上げ、僕を真っ直ぐに見据えている。観察するように、僕の思考を探るように黙っている。
「ど、どうした?」
 扇浦は頭を振り、失礼しましたと小さく口にする。
「あまりにも下らない質問だったので。少々思考が停まりました」
 頭痛をやりすごすように額に手を当ててそう言う扇浦の口ぶりはいつも通りのものだったけれど、初めに感じた違和感は未だにぬぐいきれない。
 触れるべきでない何かに触れてしまったのかもしれない。
「藤埜さんこそどうなんです? 誰かを好きになったこと」
「俺は――ない、かな」
 そういう話とは縁遠い生活を送ってきた。そういう感情が芽生えるほど女子と懇意になったことがないのだ。かわいい子を見て『かわいい』と思っても、その子と付き合いたいという気持ちには至らない。
 恋愛よりも楽しい事なんていっぱいあるし、そんなことで精神をすり減らすのはとても不毛なことだと思うから。
 愛だの恋だのどうでもいい。そんなのは、まやかしだ。



 部長会を終えた高樹はドアを開けるなり挨拶代わりのようにいきなり
「今年のテーマは『アイ』だ」
 と、言って入ってきた。
 アイ――愛。それは確かに今の高樹にとってはとても馴染みのある言葉だろう。撮る対象も決めてあるだろう。いや、もしかしたら彼女のことを撮りたくてこんなテーマにしたんじゃないだろうか。なんという職権乱用。公私混同。
 扇浦は肩の高さに挙手をする。
「それは同音異義語のテーマですか」
「そうだ」
「なら、固定テーマは?」
「今年はテーマを絞る。去年扇浦が言っていた統一感というのを出そうと思う」
「それは固定テーマに限定しての話です。多様な解釈のあるそれではかえってバラバラになるだけなのでは」
「異議は認めない。今年はこれでいく。いくったらいく」
 高樹らしからぬ意志の強さだ。去年は扇浦の抗議におっかなびっくりだった癖に。去年と今年の何が違うか、など考えるまでもない。そこまで人に愛される事が彼を変えてしまったのだろうか。
 僕の助け船は、もういらない。
 いいさ、構わない。僕はもう必要ない。
 こうやって、みんな僕から離れていくんだ。恋が人を狂わして、何もかもを壊していく。

「あと、藤埜」
「何だよ」
「マールトのチケット、取れたんだけど」
「は? まだ売ってたの?」
「ううん。だけどチケット譲ってくれるっていう人が居たみたいでさ」
 そうか。いざこうして行けることになると、その他の色々な事も少しはどうでもよく感じてくる。
 CDでだめでも、生の音ならばまた違って聞こえるかもしれない。新しい響きをもたらしてくれるかもしれない。
「それで、チケットなんだけど……三枚あるんだ」
 三枚。三枚? 僕と高樹の分と、あとは? 僕は無意識のうちに扇浦を横目で見た。けれど、高樹は僕を見ている。僕と高樹と、もう一つの空席に座るのは扇浦が相応しい。けれど彼はマールトには全く興味を示さないし、万一彼を誘うつもりなら、高樹は僕ではなくて、扇浦を見つめるべきだ。
 では。
 この局面でその席を埋めることのできる登場人物を、僕は扇浦の他に一人しか知らない。
「あいつがさ、チケット探してくれたんだ」
 誰のことかは訊くまでもない。彼女だ。
「マールトの事、知ってるの」
「うん。実はマールトのCDを聴かせたらなんか気に入っちゃったみたいで、さ」
――――――。――――。――。――――。


 じゃあ要らない。そんなチケット欲しくない。けど、マールトのライブは見たい。今回は会場も結構大きい。これから人気が出れば今以上にチケットが取りづらくなるかもしれない。これはチャンスだった。高樹の彼女のことさえ割り切ってしまえば、きっと最高のライブを見られるはずだ。どうせライブなんて歌に飲み込まれて周りの事なんて気にならない。誰と行ったって同じ事。同じ事。――それでも。
「前から言ってるけど俺はあんまり二人の邪魔したくないんだよ」
「邪魔だなんて思ったりしない。あいつがお前に会いたがってるんだ」
 ああ。何だこれ。僕が一番近付きたくない相手が、僕に近付きたがっている。どうして僕に会いたがったりするんだ。自分の存在をアピールして、付き合ってることを自慢して。不幸な僕に幸せな様を見せつけたいのか。
「会いたくない」
 騙されない。マールトの事が好きだってことも、本当はどうなのか分からないじゃないか。ただ高樹に気に入られたくて好きな振りをしているのかもしれない。そんな人間にチケットを恵んでもらう筋合いはない。
「――そっか……」
 否定。
「別にいいよ。うん、チケットはなんとかするから」
 謝罪の言葉すらもはばかられるほどに思い空気が押し寄せてくる。それでも高樹は笑ってくれる。許してくれる。責めたりしない。
 何故? 傷ついていないはずがないのに。
「ま、今度あったらさ、一緒に行こうぜ」
「そうだな」
「楽しかったよな。去年」
「――うん」
「テストはやばかったけど、いろんな話できて、嬉しかった」
「――ああ」
 僕だって楽しかった。あの日に帰れるのならそうしたい。
 今の高樹には彼女が居る。僕はただの邪魔者だ。そしたら、二人はあの部屋に泊まるのだろうか。
 万が一そうなれば、僕との思い出などいとも容易く塗り替えてしまうことだろう。霞んでしまうのだろうか。陰ってしまうのだろうか。陽の光に照らされ薄れゆく朝靄のよう。
 それを悲しむだけの権利は僕にない。僕はただの友達だから。祝福しなければいけない。

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