→NEXT ←PREV ←MENU 自己嫌悪と虚無とを繰り返しながら、その日の午前を潰していった。途中の休み時間も高樹と普通に接せられたと思う。とても談笑できる気分ではなかったが、普段通りにしていなければならない。午前の授業は残すところあと体育のみ。元気がないのは眠気のせい、と勘違いしてくれているのはありがたい話だ。 彼の鈍さには感謝をしなければならない。 「ゆうべ何時に寝たわけ?」 「――三時くらいかな」 眠れなかった事は事実だ。布団に潜り込んでももやもやとした思考が僕から睡魔を追い払っていた。 「見学してた方がいいんじゃないのか? 倒れるぞ」 「平気だよ、このくらい」 「でも顔色も良くないし」 「大丈夫だって」 表情を覗かれないように一歩前に出た。それを汲んでか、高樹もその距離を縮めたり追及したりすることはなかった。 知らない方が良い事なんて世の中には腐るほどある。 友達だからこそ分かち合ってはいけないこともある。 これは僕自身の問題だ。だから僕だけが心と口を閉ざせばそれでいい。それでいいじゃないか。 体育の授業で倒れることこそなかったが、その活躍ぶりといったら悲惨を通り越して凄惨なものだった。 頭が回らない。体が動かない。重く冷たい鎖に全身が縛られているようだ。 他の生徒からの失笑も冷やかしも、憂慮すらも鎖の音にかき消される。 想像以上に重症だ。 それに加えて昼休みのことが余計に重くのしかかった。 「昼、なんだけど」 それは付き合い始めたという報告をするのを躊躇っていた時と同じ表情。 言わなくたって分かる。彼女と一緒にご飯を食べるから、これからはお昼を一緒に食べられない。そういうことだろう。 引け目を感じるのならば彼女の方を断ればいいのに。それでも初めてできた彼女だから大切にしたいんだ。ただでさえクラスが離れていて一緒に居られる時間は少ないのだから、休み時間くらいは一緒に居たい。 そんな当たり前なこと、誰かと付き合ったことのない僕にすら分かる。 分かることと、それを受け入れられることとはまた別だけれど。 「彼女と一緒に食べるんだろ? 俺のことは気にしなくて良いから早く行ってやれよ」 自分の言葉で胸が潰れそうになった。本当は。本当は。 「藤埜もさ、一緒に来ない? 紹介したいし」 「俺はいいよ。せっかくなんだかららぶらぶしてこいよ」 渋る高樹の背を押して、見送った。彼は何度かごめんとありがとうを繰り返し、教室を出て行く。 いつも、賑やかとまでは言わないものの、それなりに盛り上がる昼休みだった。喋ることと言えばマールトのことや下らないことばかり。だが会話の途切れない、ささやかだけれど楽しい時間だった。 けれども仕方がない。これから高樹はずっと彼女とご飯を食べるのだ。そのうち彼女の手作り弁当なんか食べるようになるんだ。僕は唾棄したい思いを大きな溜め息でやりすごした。 別に高樹だけが僕の友達というわけじゃない。昼飯だってクラスの他の連中に声を掛ければ一緒に食べられるだろうが、そういう気分になれないだけだ。第一こんな湿っぽい顔で入ってこられても向こうだって迷惑だろう。 結局僕は部室の扉を開くのだった。 「やあ」 彼の顔は湿っぽいと言うよりも乾ききった表情をしている。僕の湿度を分け与えれば、きっとこの場の空気も平穏になるかもしれない。というのは単なる言い訳だ。 「今日はよくお会いしますね」 「ここで昼飯食ってもいい?」 「二度も同じ事言わせないで下さい」 それでは、と邪魔することにする。しかし今度は寝てる振りというわけにもいかない。持ってきた弁当に黙々と箸を付けるのだが、食べながらどこへ視線を置けばいいのか分からない。目の前に居る扇浦は僕なんて見えないようにもそもそとパンをかじり、雑誌をめくっている。 静かだ。 自分が咀嚼する音が聞こえる。 「扇浦って」 この部屋に自分が居ることを確認するために僕は声をかける。視線は雑誌に落としたままだったが、しっかりと僕の声は届いていたようだ。 「はい」 「扇浦っていつも一人で何してるの?」 「何――とは?」 「いや、普段部室にいるんだろ? あとは、ほら、休みの日とか」 我ながらつまらない話題の選択だった。扇浦が更に不機嫌になっていくような温度をひしひしと感じる。 「別段変わったことはしていませんよ。こんな風に雑誌を読んだり、家だったら音楽聞いたり、気が向いたときに出掛けて写真を撮ったり」 「ふうん」 誰かと出かけるといったことはしないらしい。しかしその辺りを除けば意外と常識的な日常の過ごし方と言える。部室で本を読んでいるイメージが強すぎてそれ以外の部分がイメージできない。私服などもはや想像すら及ばない。事実、こうして食事している姿にさえ違和感を感じるくらいだ。人間らしさがないというか、実はロボットでしたと言われてもさほど驚かない自信がある。 「いつも何読んでるの?」 「特に拘りはありません。ただ売っている物を適当に買っています」 「今日は?」 「オレンジページ 必見! 朝楽チンなお弁当術特集号」 「料理とかするんだ?」 「だから。適当に買っているって言いましたよね」 そうは言っても全く興味のない雑誌なんて買うものだろうか。もし本当ならあまりにも無節操だ。自分の興味の範疇を限定させないとも言えるか。確かにそれなら豊かで幅広い見識を得られるかもしれないけれど、それならその豊かな見識とやらを日常会話で役立てて欲しい。 「音楽とかは何聴くの?」 「それも別に拘りはありません。傾向としてはクラシックとかインストが多いですね。歌が入っていると雑念が混じって鬱陶しいことが多いので」 「じゃあ、ライブとかも行かないんだ」 「返答の分かりきった質問をするのは時間と労力の無駄ですよ。行きません。行きませんよもちろん。クラシックのコンサートならまだしも、下手なバンドの演奏なんて聞きたくないですから」 「それは分かるけどさ、でもいっぺん行ってみると印象変わると思うよ」 「騙されたと思って行ってみろ、ですか?」 「まぁ」 「嫌です。騙されたくありませんから」 「騙すつもりはないよ」 「自分の感動が他人も同じくらい感動するとは限らないでしょう」 「そうか?」 良い物は誰が見ても、誰が聞いても、良い物なんじゃないだろうか。僕が口を開く前に、彼の言葉がそれを塞いだ。 「火垂るの墓って感動しますか?」 「ああ、うん。まぁ」 夏の終わり頃によくやるあれだ。見る度に陰鬱な気分にさせられる。感動といえば感動だろう。 「僕は自業自得だと思いました」 「……そこまで?」 「世渡り下手過ぎます。反社会的な行動を取れば社会から逸脱するのは当然のことですよ。それなのに感傷を言い訳にして反発して、自分から不幸に片足を突っ込んだのに世間が悪いと文句を言うのはおかしいと思いませんか。二人をかわいそうと言うのはあまりにも無自覚です。あの時代、もっと悲惨な子供達はいました。もっと苦しみながら死んだ人は山ほど居ました。戦争はいけない、というのは正論ですけど、そこを無視して二人だけがかわいそうみたいな論調になってしまうのは些か欺瞞が過ぎるのではありませんかね。かわいそうなのは二人だけではありません。そしておばさんは本当に酷いでしょうか。そんなこと考えて見ると、とてもじゃありませんがまともに感動なんてできるはずがないのです」 こわいこわいこわい。 扇浦はどちらかといえば無口な印象に見られやすい。しかし実際にはこんな風に意外とおしゃべりなのである。一本調子で絶やすことなく言葉を流し続ける。トーンは決して高くないが、言っていることは喧嘩腰だ。扇浦に友達がいない理由も納得できる。 「それで、何て言いましたっけ、藤埜さんと高樹さんがご執心のロックバンドは」 「……マールト」 この局面でマールトを出すのはすげぇ嫌だ。絶対露骨に嫌な事言われるよこれ。 「それも僕には全然響きませんし」 「………………」 「だからって別にマールトが悪いとか才能がないとかは思ってません。自分の好きじゃない物は全て無価値だなんて言うほど傲慢じゃありませんから」 うむ、と僕は小さく唸る。言葉の端々に嫌味を織り交ぜる以外、言っている内容や思想そのものは案外まともだ。編集者が希釈して要約してくれれば結構真っ当な人間になるのかもしれない。 「それで。藤埜さんは高樹さんが彼女に現を抜かしているのが気にくわないんですね」 ほんの少しピントはズレているものの、概ね間違ってはいない。周りから見ればそういう風に映るのだろう。 「浮かれているのは仕方ありませんよ。初めての彼女でしょう。今は多幸感に酔っている頃合いですから」 「――――扇浦って付き合ったことあるの?」 「ありませんよ。一般論です」 「そう」 「寂しいですか? 構ってもらえなくて」 「………………」 「友情なんてそんなものですよね」 「そうだよな」 男女の愛情に比べれば、何も生み出すことのない空虚な関係性だ。言ってみれば恋の練習台。恋人は友達の上位互換でしかないのかもしれない。 「かみつかないんですね」 「なんで」 「普通反論しません? 友情は永遠だ、みたいなこと」 「こんなもんだよ。友達なんか」 「友達が居るってどんな感じですか?」 「え? 友達いたことないの?」 「友達童貞です」 「そんな言葉あるのか?」 「新たなる単語の誕生に立ち会えたことを喜んで良いと思います」 喜べるか。 「だいたい何をどうしたら脱せられるんだ友達童貞」 「拳で語り合う」 「したことないぞ」 そんな熱血漫画みたいな展開は今日日流行らない。 「お互いの家に泊まる」 「うーん……?」 一応マールトのライブを観に行った日のアレが含まれるのかもしれないけれど、互いの家に泊まったということはない。 「お互いの生殖器の大きさを比べる」 「それはしなくていい」 生々しいんだよ言い方が。 「なんだ。藤埜さんも友達童貞なんじゃないですか」 「そうなるのか……? なんか嫌だな」 「まぁそれなりの友達はいたみたいですし、差し詰め素人童貞といったところでしょうか」 「嫌すぎる!」 「冗談はさておき、別段高樹さんの優先順序が変わったという訳ではないと思いますよ。ただ疎かにできない人間が一人増えたと言うことで、世の中同率一位なんてよくあるじゃないですか。お寿司はお寿司、ステーキはステーキ、どちらが劣っているわけではないでしょう」 「なるほど」 「まぁ僕はお寿司の方が好きですけど」 「そういう話じゃないんだろ?」 「そういう話もあるかもしれないから覚悟しとけって話ですよ」 お寿司よりステーキの方が好きという人間がいるように、明確に他人を順位漬けする人間もいるということ。それが百分の一の差であったとしても同じステージには立たせない、一位はたった一人のものだけとシビアに残酷に割り切ってしまう。例えば、僕のように。 なかなか心臓に悪い話もたくさんあったけれど、ほんの少しだけ気も紛れたし頭の中を整理することもできた。 「何か悪いな」 「何がです」 「気、遣ってくれて」 「気なんて遣うわけがないじゃないですか。言いたいこと言っているだけです」 それでも僕のことを気に掛けてくれることは嬉しかった。気分は晴れなかったけれど、それもつまり慣れれば日常の一部となるだろう。高樹が彼女と仲良くしているのなら、僕は他の誰かと仲良くすればいいだけのこと。僕も高樹よりも優先する人が居ればこんなことで感情を揺すぶられることはなくなるはず。 時が解決してくれるだろうか。放っておけば癒える傷なのだろうか。時を経るほど症状が進んで手の施しようがなくなる病ではないだろうか。そう思えば怖くなり、それでもどうするべきなのか分からない。 いいや。普段通りにすればいいんだ。この件に関して高樹には全く落ち度はない。あくまで僕の在りようの問題でしかない。だから、喩えその事で僕の胸が痛んだとしても、一生消えないような深い傷を創ることになったとしても、それは僕が甘んじて受け入れる罰だ。僕以外の誰も背負わなくて良い罰だ。 だから、高樹には気付かれてはいけない。本当は扇浦にも気取られるべきではなかった。一人で抱え込まなきゃならないことは、あるんだ。友達だから分け合わなきゃいけないなんてことはない。友達だからこそ、この痛みを分けてはならない。 教室に戻った僕は、何かを言いかけた高樹に全く関係ない話を振って気を逸らす。多分、彼女を優先したことを謝りたかったのだろうけれど、それについて僕が今まともな返答ができるとは思えない。彼女との話をされることが一番辛い。だから、その話題はしないよう、態度で釘を打った。きっと彼には通じたことだろう。 彼のために時々は彼女とのことを聞かなければならない。けれど、それは僕にちゃんと余裕ができてからにしよう。 現実逃避でも、戦略的撤退だ。お互いの平穏のために。 →NEXT ←PREV ←MENU |