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 嫉妬と羨望。それは一体何に対しての物だろう。
 先を越されたとか、そういう気分では決してない。ただ漠然とした落胆が僕の心の中で無限の膨張を続けている。成長痛に似たその感覚を抱きながら、僕はひたすらベッドの上で悶々とするのだった。
 嫉妬?
 何に対して? 誰に対して?
 認めたくない。答えは目に見えているというのに、それを自覚してしまうことが怖い。そんな愚かなことを考える自分を許せない。人は誰だってきれいなままでいたいだけだ。誇れる人間でいたい。僕の考えはとても間違った物で、人として劣った欲望だ。それを認めてしまえば、軽蔑に値する人間に成り下がるだろう。考えたくない。けれど次々わき出るその想いは、どんな強固な理性の蓋をも押し返す。
 高樹を誰かにとられてしまう。
 高樹の一番が僕でなくなってしまう。
 人は誰かの所有物なんかじゃない。取られるだなんて表現は間違っている。そんな表現を当然のように使う価値観も間違っている。友達に彼女ができることは喜んであげるべきことだ。他人の幸せを、下らない独占欲を理由に祝福できないなんて、あまりにも度量が狭すぎる。人間として矮小な、恥ずべき思想だ。
 それでも僕は自分の醜さを捨て置くことができなかった。絡みつく蔦のように、僕の心身をぎしぎしと縛り上げる。衝動と理性とがせめぎ合う。自分の欲望と世間の価値観が食い違ったとき、それをどう処理すればいいのか分からない。間違っていることが明らかだとしても、折り合いを付けることができない。
 僕はヘッドフォンを装着する。ボリュームマックスでマールトのCDを流す。はずだった。ボタンを押しても反応しない。
――電池切れてる。
 コンポはベッドの脇の出窓に置いてある。そこにCDをセットし直せばいいだけの話だった。だが、今の僕にはそれすらも億劫だ。マールトは確かに安らぎと興奮を与えてくれるけれど、それはほんのひとときの誤魔化しであって、結局のところ何の助けにもなってはくれないのだ。
 彼らはどんどん僕らから離れていく。あの日、あんなに近くに感じたマールトが、今はもう遠い。

 誰も何も助けてはくれない。それでもいい。それでも、高樹が幸せならいいじゃないか。僕がどうなったって、それはどうでもいいことだ。
 僕のいちばんの友達。一番――


 翌朝、いつもより早く家を出た。高樹が乗ってくるより数本前の電車に乗って学校へ向かう。駅から続く通学路は普段よりも少ない生徒しか歩いていないのに、ずっと賑やかに感じた。高樹と居ればいつも何かを話していたから、周りの音なんて全く気にしていなかった。談笑に満たされた世界が僕を放り出して回っている。高樹とその彼女も、そんな世界でくるくると回っていることだろう。
 僕が向かったのは教室ではなくて、写真部の部室だった。案の定、鍵は既に開いている。
「おはようございます藤埜さん」
「おはよう」
 この陽の差し込まない薄暗い部室では、彼の佇まいは彫像のようだ。彼の性質がこういう空間を本能的に求めているのかもしれない。
「どうかしましたか。ずいぶんと辛気くさい顔をしていますよ」
 辛気くさい僕がこの場所へ逃げ込んできたのと同じように、彼も十分辛気くさい。
「何も。邪魔していいか?」
「どうぞ。部室は僕の所有物というわけではありませんから、特別断りを入れる必要はないでしょう」
 それはどうもと嫌味をやり過ごす。一つ一つに反応していては身が持たない。
 僕は鞄を机の上に放り、それを抱え込むように突っ伏した。
 写真部の部室と言っても、最近はカメラもデジタルだ。暗室があったり現像液やら定着液のにおいがするわけではない。ただ雑然と資料や作品集、ゴミにしか見えない先輩達の遺物が置かれているだけだ。それでも部室は部室のにおいがする。何のにおいなのかは分からないけれど、不思議と落ち着く。ここを使ってきたひとたちのにおい。その中には僕と高樹のにおいも含まれていることだろう。
「今日はお一人なんですね。高樹さんは?」
「しらない」
「ケンカでもしたんですか?」
「してない」
 根暗で口の悪い扇浦だが、意外と口うるさい世話焼きなのだった。ある種の鬱陶しさはあるが、それを承知でこの場所に来たことは否めない。むしろ今の僕は望んですらいたかもしれない。胸の内の全てではないけれど、ほんの少しでも打ち明けられたら、と。
「高樹、彼女ができたんだって」
「へぇ。あの盆暗に」
「お前そんな風に思っていたのか」
「藤埜さんのことは凡夫だと思っています」
「ぼん?」
 どういう字を当てるのかは分からなかったが、少なくとも褒められていないことだけは分かる。
「それで、どうして藤埜さんが落ち込むんです?」
 それが素直に答えられればこんなに落ち込んでいるはずがない。答えられないから、答えたくないから落ち込んでいるのだ。もぞもぞと動いて額を鞄にこすりつける。僕に答える気配がないのを察したのか、扇浦は追及をやめた。
「なんでもいいですけどね、別に」
 そう言うと、部室の中にはただ雑誌をめくる音だけが残った。
 予鈴がなるまであと三十分以上ある。寝ている風を装っているとはいえ、この沈黙が続くのはなかなか重い。扇浦はどうしてこんな状況で平然としていられるのだろう。顔を少しだけ上げて様子を窺ってみても、彼はあくまでもマイペースで雑誌に没頭している。平然としているどころか余計な話を振らないで欲しいとすら感じさせる様相だ。
 不可侵と無干渉。
 求めるものが同じなら、それで構わない。彼の厚意に甘えよう。






「どうしたんだよ藤埜。寝坊か?」
「ああ、まぁそんなかんじ」
 教室へ入った僕を見つけるなり高樹は声をかけてきた。友達として当然の行動だ。以前の僕ならそれを至って普通に受け入れられただろう。ただ、今はまるでそれが振り上げられた握り拳のように感じられる。
 悪意のない暴力。善意のナイフ。
 結局あのまま予鈴が鳴るぎりぎりまで部室でふて寝をしていた。
 気分は最悪。このまま授業をサボってしまいたいくらいだったけれど、そんなことをすればなし崩し的に高樹を避け続けることになりそうだった。避け続けたいのはやまやまだけど、クラスで仲が良いのは高樹だけだから。
 他の奴とも話したりすることはあっても、それはやはり僕の居場所ではない。自分の気持ちを明確に説明できない以上、高樹と距離を置くことは難しい。だから僕は、自分の気持ちをひた隠しにして高樹と普段通りに接しなければいけない。
「何か、元気ない?」
 それは簡単なことではなさそうだった。
「いや。眠いだけだよ」
「そっか」
 彼の微笑みが突き刺さる。
 この気持ちがどうか、誰にも気付かれませんように。
 僕の孤独な祈りは、予鈴が響く教室の喧噪に溶けて消えた。
 けれど、もしそれが紅茶に入れた砂糖のようなものだったとしたら。教室いっぱいに広がってしまったのかもしれない。彼の鼻腔や舌の上に、甘く苦く届いてしまうのかもしれない。
「じゃ」
「おう」
 僕はそれを望んでいるのか? 今朝部室に行ったのもそうだ。ただ時間を潰したいだけなら図書室だって別に良かった。扇浦が居ることを知っていながら僕は部室に身を寄せた。心配して欲しくて、構って欲しくて、けど放っておいて欲しくて。
 最近の僕という人間は、なんて嫌な奴なんだろう。
 自己嫌悪も得体の知れない焦燥感も、授業に没頭することで紛らわすことができそうだ。先生の言葉をひとことも聞き漏らさないように、ひたすら手を動かし続けた。
 なんとも虚ろな物体だ。感情を押し殺し、思考を破棄し、滑車を回し続けるだけの無意味な肉塊。
 本当にそうなれたら、虚しさなど微塵も感じないことだろう。醜い劣情を抱くことなどない。
 ならば僕はそういう無価値な物体よりもみっともない生き物なのだろうか。
 シャーペンを走らせる手を止めて、深くため息をついた。問題は簡単じゃないか。大元の前提を認めてしまえば連鎖的に絡まった問題は解きほぐれ、解決策も浮かぶことだろう。けれどそれを拒絶している。あいまいなまま、答えを出さず、自分で吐き出した糸で自分の首を絞め続けている。もはや愚かとしか言いようがない。拳を額に押しつけ、にじみ出る感情を押し殺した。再びシャーペンはノートの上を滑りだす。
 何かをひたすら塗りつぶすように。



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