※CAUTION※
・同性愛に関する表現が多々含まれます。
・閲覧に年齢制限を必要とする類の小説ではありません。
・「エロがない! ふざけんな!」とか言われるとものすごく困ります。


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 彼の字は丸くて小さく、震えているように書かれていた。これが遺書である事など忘れてしまいそうなほどに深刻さのない字面だった。
「笑える」
 僕にとって守谷と過ごした時間はかけがえのない大切なものだったけれど、人生の中で一番楽しかった思い出とはお世辞にも言えない。もっと楽しいこともあった。悲しいことも辛いことも刺激的なこともたくさんあった。世の中にはもっともっと心躍ることがあるのに、どうしてあんな穏やかで何でもない時間が一番の思い出になるんだろう。
「そんなことしか思い出に残らない人生って、どんな人生だよ」
 遺書って、苦しい胸の内を書く物ではないのか。こんなに苦しくて、こんなに辛くて、こんなに嫌な事があったから死にます、と書く物だ。恨み辛みを書けばいい。あんな思わせぶりなことをした僕を憎めばいい。選択肢を間違えた僕を責めればいい。かけて欲しかった言葉を書けばいい。世界で唯一僕を罰する事の出来る人間に謝られたら、僕はどうすればいい?

 自分の腹の中に溜まったあらゆる感情をバネのように使って、野田の胸ぐらを掴みあげた。
「止めてやれたのは、お前だけだったのに」
 声に力が入らない。目の前に居るのは友達なのに憎い。怒り狂ってるはずなのに悲しい。自分の無力さを棚に上げ、こうして掴み挙げる事に何の意味があるのだろう。矛盾と焦燥が僕を焼く。そんな僕に野田は真冬の流水のような声を僕に浴びせる。
「止めてやればあいつは幸せになれたのか? そんなことない。俺たちを救ってくれるのは死ぬことだけだ」
「救ってなんかいない。お前が守谷を殺したんだ」
 あいつはいつだってそう。春風にもてあそばれるビニールのように、ふわふわと流されるまま身を委ねる。『自分』というものがあまりにも希薄すぎる。だからしっかりと掴んでいなければいけなかった。そして、そんな彼の唯一の勇気があったからこそ、あの時の僕は救われた。だから今度は僕が救ってやりたかった。力になりたかった。
 そんなことを言う資格はない、と野田は吐き捨てるように言った。
「何もしてやれなかったくせに。お前が全部を狂わせたくせに。俺を責めることができるのかよ。お前が。お前が!」

「それでも、助けてやれたのは、野田。お前だけだったじゃないか」
 僕に何が出来たのかは分からない。彼の中に確かに存在していた暗闇を払い落とすことは誰であっても不可能だったかもしれない。それでも、僕が伝えたかった言葉も、想いも、温度も、深い深い谷底には届かない。たった一つだけ伝えたかったことがあったのに。その一言だけでもしかしたら踏み止まってくれたかもしれないと思ってしまう自分は甘いのだろうか。僕には彼らの闇を理解することはできない。だから僕は無自覚のうちに彼の心を踏みにじって、痛めつけていた。なら、同じ闇を理解している人間であったら止められたのか?
「お前なら守谷のことを理解してやれたんじゃないのか」
「理解していた。だからこそ俺たちは死んだ方が良かったんだ」
 守谷の姿が次々とまぶたの裏に映し出される。柔らかい黒髪、頼りなく細い白い腕、大きなヘッドフォン、笑った顔、困った顔、本を読んでいる横顔、あの時感じた体温。驚いた表情。
 もう、どこを探しても見つからない。せり上がる悲しみを外へ漏らさないように、強く強く歯を食いしばる。
「会いたかった」
 野田は僅かに目を見開いた。
「どんなに変わり果てていても会いたかったよ」

「会えて良かった」

「守谷がお前に会わせてくれたんだ。守谷がお前の事を守ってくれたんだ。それで、この『手紙』を俺に届けてくれたんだ」
「そう。だから俺は踏み止まった。地獄に片足を突っ込んだのに帰ってきた臆病者の俺が、一つだけ生きる理由を見いだせた」
 それがこの『手紙』。
「だから俺の役目はここで終わりだ。もういいだろ。守谷に会いたい。楽になりたいんだ」
 力の入らないこの手でも、易々と持ち上げられるほど彼の体は軽かった。それはまさに枯れ木のようだ。
 それでも、彼は他ならぬ野田彰良であって、野田彰良の一つの結果なのだ。

『確かにあたし達の居場所はもうないけど、ここにあたし達が居たっていうことは事実でしょ。なら、それはあたしたちの学校ってことだよ』

 彼女が言ったとおり、僕と彼が共有した思い出は不変である。変わり果ててしまった守谷でさえ、僕は受け入れたかった。
 胸ぐらを掴んでいた手を僅かに下げ、野田の胸に額を寄せた。鼓動は確かに脈打っている。命の音を刻んでいる。それは命が尽きるまでのカウントダウンなのかもしれない。破滅の音でしかなかったとしても、僕はこの生きている証を愛しいと思う。
 こんな事をしても僕や野田の中にある悲しみが消えることはない。それでも、わずかな熱がじんわりと僕らを包み、孤独や不安といったものがわずかにでも溶けたなら。
「野田には覚えていて欲しいんだ」
「……何を」
「守谷が生きていたってこと。どんなことでもいいから、どんなに嫌な事でもいいから覚えていて欲しい」
 かつて僕は、守谷が僕と翼を取り持った行動を疑問に思った。彼に何のメリットもない、それどころか危険すらも伴うのに、何故そんなことをしたのか。僕のため、と言った言葉の裏には何かがあったのではないだろうか、とさえ思った。
 違うのだ。彼の行動原理に自分へのメリットがあるかどうかなど含まれていない。自分が好きになった相手が幸せになるのなら、どんな危険でも冒す。
 そして、僕の一番の心残りだった余計なお節介すらも、守谷は自分が悪いと思っている。
 僕には到底考えられない。理解の範疇を超えている。けれど守谷はそういうやつだった。

 彼の世界には自分という物が存在しないんだ。
 自己犠牲に見える数々の行動も、なんてことはない。自分の存在を認めていないのだから、犠牲でもなんでもない。
 

「俺は一人でも多くの人に守谷が生きていたってことを、覚えていて欲しいんだ」
 同窓会へ行こう。そして話をしよう。
 みんなの知らない、記憶にも残らない、卒業アルバムにも載っていない彼の話。
 彼がどれだけ臆病で、無垢で、寛容で、博愛的だったかを聞いてもらおう。
「だから野田。お前の事も知りたい。この十年に何があったのか。それがだめなら、今のお前の事。これからのこと」
 僕は彼の答えをただ待った。
 これが最善の方法かどうかは分からない。けどそれはいつだってどんな時だって同じだった。
 原のこともそうだ。僕がただ話を聞いてあげただけで彼女の問題が解決するわけではない。彼女の物語に僕の一言などなんの影響も及ぼさなかったかもしれない。それどころか、何か悪い影響を与えてしまったかもしれない。
 それでも、僕はいまできることをやった。頼りないけれど力になりたいと思った。
 贖罪などとはおこがましい。何をしたって守谷は帰ってこない。
 それでも、後悔するだけでは何も変わらない。

 彼は自嘲気味に笑い、言った。
「死人が出ていったら、びっくりさせるだろ?」
「びっくりさせてやればいいんだよ」
 誰が彼を笑ったって僕は笑わない。
 そう言うと彼は小さくありがとうと呟いた。
 僕らの十年が少しだけ縮まった。
「野田。ほんの少しだけ中に入っててもらっていいか」
「どうして」
「少しだけ、思い出に浸りたいんだ」
 ここは僕と守谷の思い出の場所だ。あの頃の僕らが唯一許される場所だ。





 屋上に座って見る景色はあの頃のまま。それでも君は隣に居ない。
 あの日、僕が翼と別れた日。ひとりぼっちの屋上は漠然とした不安を僕に与えた。
 とても寂しい場所だったんだ。穏やかな時間の流れる場所が、一人だとこんなにも色のない景色に見えるなんて。あいつは、ずっとこんな景色を見ていただなんて。
 一筋だけ涙を流した。
 守谷。もしもまたお前に会えたら、言いたいことがあったんだ。





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