※CAUTION※
・同性愛に関する表現が多々含まれます。
・閲覧に年齢制限を必要とする類の小説ではありません。
・「エロがない! ふざけんな!」とか言われるとものすごく困ります。

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 高校時代の同級生から、久しぶりに電話がかかってきた。どうやら近々同窓会があるそうだ。
 あの街を離れてからもう十年近くが経つ。彼とも久しぶりに会話を交わし、同窓会への参加確認を兼ね、互いの近況を報告し合った。そこには十年の歳月を感じさせない、あの頃のままの温度があった。
「懐かしいな。みんな、元気かな」
 僕が何気なく呟くと、彼は
「一人さ、死んだんだって」
 と、不謹慎なほど明るい声で言った。
「へぇ、誰?」
「モリタニって憶えてる?」

 夏前の風が僕の身体を撫でるように過ぎてゆく。

「えぇっと。誰だったかな」
「まぁあいつ根暗な奴だったからなァ。憶えてないのも無理ないか」
 彼は笑っていた。その先をせかしたい気持ちを抑え、僕も曖昧に笑い返す。
 モリタニ、守谷恭司。忘れているはずがない。あの風に飛ばされてしまいそうな頼りない体躯、不健康に白い肌と、宝石のような瞳、よく手入れされた犬の体毛みたいに柔らかい髪の毛を、忘れるはずがない。
「モリタニキョウジっつってさ、休み時間になったらどっかへふらーっと出てっちまうようなやつだよ。俺もあんま話したことなかったし。何考えてるかわかんねーっつの?」
「そうか。あとで卒業アルバム見てみるよ」
「でさぁ、それがなんか自殺らしいんだよ」
 彼の言葉はそこで終わらなかった。
「しかも、男と心中」



「笑えるよなー。まじヒサン。よりにもよって男とだぜ? いやぁ、まさかあいつがホモだったとはな」
「心中……ね……」
 よりにもよって。
「あとはみんな元気だよ」
 あとのみんなが元気で、守谷だけが死んだ。あとのみんなが普通で、守谷だけが普通じゃない。正確に言えば、守谷と、自分。
 そのあと、彼と何を話したのかは憶えていない。
 きっと当たり障りのない、毒にも薬にもならないような話をして終わったのだと思う。電話を終えたあとは、懐かしさでも何でもない、どうしようもない倦怠感だけが残った。


『ぼくは、御崎くんみたいになりたいな』

 憶えている。あの夏の日を。
 思い出せる。彼のすべてを。

『                 』

 焦燥のような、感傷のような、得体の知れぬもどかしさが胃の底からせり上がり、身体の隅々へと広がっていく。言い表せぬ感情に支配された僕は頭を抱えて座り込んだ。



            ***


 充実していたといえば充実していたし、不満とか劣等感とか、人並み程度にあったけれど、まぁ人生なんてそんなもんだろうと思っていた。
 自分がいわゆるマイノリティであることもさほど悩んだことはなかった。それはある種の他人に言えない日陰趣味みたいなもので、秘密というエッセンスのようなものとか、他のそういう人々に比べればずいぶん楽観的な人間であったと思う。
 そんな風な人間だったからこそ、そつなく学生生活を送れていた。決して深入りはせず、しかし距離を置いていることを悟られないように、虚実を取り混ぜ、クラスの輪に加わっている振り。器用な立ち回りはこの頃から得意だった。
 一方で同類の友達も結構居たし、彼氏だっていた。
 楽しいってのは、きっとこういうことを言うんだろう。

 だから、はじめ、僕は彼のことを見下していた。いや、それすらもまた違う。見下していたなんてものじゃない。存在の認識すらしていなかった。クラスで目立つ一部にだけ存在価値があって、その他なんて休もうが死のうが関係ない。自分と関わり合いがないのなら、それは死んでいるのと同じこと。彼らはゴミでもクズでもない。『無』そのものだった。
 だから
「えっと」
 僕は
「ミサキくん」
 君の名前を知らなかった。
「だよね?」


「お前何してんの?」
 屋上へ続く階段を遮るカーテンを開けると、彼はそこに居た。段上に腰を落とし、文庫本を開いていた。その矮躯にはふさわしくないほど大きなヘッドフォンを首にかけている。
「え? えーと、べつに……。ミサキくんこそ、なにしてるの?」
「……何でも」
 僕は左手に持っていたタバコを後ろのポケットに押しこんだ。
 別に隠すようなことではないけれど、チクられるようなことがあってはたまらない。幸いカーテンで隠れていたし、見つかった気配は感じられなかった。
「ここに人が来るなんて珍しいな。よければゆっくりしてってよ」
 誰がこんなところでくつろぐものか。何と言っても冷房設備のない公立校だ。短い梅雨が明けた七月にはあまり立ち寄りたくないほど蒸す場所だった。しかし今まで愛用していた喫煙所が教師の目に付いたらしく、迂闊に近寄ることが出来なくなってしまった。そのためこの場所を探し当てたわけだが、先客が居るのならば仕方がない。
「悪いけど別に用とかないから。邪魔したな」
 身体を後方にひねり、カーテンに手をかけると、鈴のような声が僕の背に当たった。

「タバコならここで吸えるよ」


「…………?」

 ぎくしゃくと振り返ると、彼はまるで子供のように人懐っこい顔で笑っていた。
「あれ? 違うの? タバコを吸いに来たんじゃないの」
 汗が背中を伝う。
「見えたのか?」
「何が?」
「タバコ」
「あぁ、やっぱりそうなんだ」
 カマをかけられたのだろうか。不審そうに彼を眺めていると
「だってこんな所に来る物好き、いないでしょ」
 そう言って彼は文庫本を閉じ、立ち上がった。
 階段を一段一段上りドアの前に立つと腰をかがめた。
「何してるんだよ」
「こんな狭いところで吸われたらたまらないから」
 後ろ手でカーテンを閉めると一気に駆け上る。まさか、屋上の鍵なんてあるはずがない。どうしてこんなやつが、と思って手元を覗き込むと
「得意なんだ。こういうこと」
 カチリ、という音がして、専用の器具が取り外される。
「……得意って、お前……」
 扉を開けると生暖かい風がなだれ込んできた。
「早く入って。長い時間開けてるとバレちゃうから」
「お、おう……」
 普段は締め切っている屋上は高校二年目にして初めて足を踏み入れる場所だった。風は生暖かいが、強く吹き抜けていくので心なしか涼しさも感じる。
「……なんか、青春群像劇って感じ」
「何か言った?」
「お前いっつもこんなところに居るの?」
「守谷恭司」
「矜持? プライド?」
「うやうやしいに司るで恭司」
「で、そのキョウ司くんはいっつもここに居んの?」
 男にしては少し長い彼の髪が舞う。
「普段は外には出ないよ。あんまり太陽に浴びるのは好きじゃないから」
「ふうん」
 一瞬だけ躊躇ってポケットからタバコを取り出す。口にくわえたあと、もう一本を取りだして彼の方へ差し出すと、彼は首を横に振った。そりゃそうか。咥えたタバコに火を付けると、その場に腰を下ろす。続いて彼も僕から一、二歩離れた右隣腰を下ろし、ヘッドフォンを装着して文庫本を再び開いた。
 僕がタバコを吸い始めたのは中学三年からだった。別段素行が悪いというわけではなかったけれど、大人への憧れのようなものが自然と僕とタバコを引き付けた。味がどうこうというよりも、こっそり隠れてタバコを吸っているという行為の方に魅力がある。普段から悪ぶっていたら意味がない。普段は至って真面目なのに、そういう規律から外れる部分もあるというスパイス。もちろんそれでいて違和感のないキャラ立ちというポイントも忘れてはいけない。
 横にいる彼を見た。ほとんど無表情で文庫本の文字を追い、定期的にページをめくっている。
 キョウジ。モリタニキョウジ。僕の名前を知っているということは、同学年に違いない。隣のクラスだろうか。
「キョウ司くんは何組なわけ?」
 そもそもうやうやしいってどういう字? とは訊かなかった。


 返答がない。
「キョウ司くんキョウ司くんモリタニキョウ司くん」

 ああ、ヘッドフォンか。
「モリタニ!」
 ヘッドフォンの耳当てをつまみ上げて、苗字を放り込む。
「え?」
 ふと、そこまでして聞きたい内容だっただろうかと気付いた。だがここで引っ込む訳にもいかずに問いを続ける。
「お前って何組なわけ? 二年だよな?」
 彼は目を点にしたまま何も言わない。僕の声は聞こえているはずなんだが。
「知らない?」
「何を」
「僕の、こと」
「知るわけないだろ」


「ミサキくんの後ろの席だよ」



 僕の出席番号、男子十六番。御崎直純。
 彼の出席番号、男子十七番。守谷恭司。

 ちなみに、僕の親友、野田彰良は出席番号男子十五番。彼とは一年の頃からの付き合いで、今年も一緒の組になれたから、ずっと僕は前ばかりを見て話していた。


「……………………」
「……………………」


「なんていうか、さ」
「……うん」
「…………ごめん」
「…………うん」
 我ながら、サイテーであったと思う。





    *********


「ヤア、おはヨう、守谷クン」
 翌朝、彼は確かに登校していた。真後ろだ。
「べつに、そんな気を遣わなくていいよ」
 少し困った笑顔で返事をする。その表情がまたなんとも僕の罪悪感をえぐるのだった。しかし別段会話をすることもないので、結局はまた前を向いて野田と話をするのだった。彼はヘッドフォンを耳に当て、文庫本を開くのだろう。
 前に座っていた野田は、ちらりと後ろの守谷を見て、声を潜めながら怪訝そうに尋ねてきた。
「なに、おまえ守谷と仲いいのかよ」
「そういうことじゃない。ちょっと昨日色々あったんだよ」
「……イロイロ?」
「そ。色々」
 彼の目は依然として据わったままで、何かを訴えるような、次の質問に躊躇うような、そんな様子だった。あまり触れられたくはないので、早々に昨日見たバラエティ番組の話に切り替えてもらうことにした。
 守谷が線の細い、谷間に咲く鈴蘭ならば、野田は花にすら喩えられない、真っ直ぐに力強くそびえる常緑樹だろう。水泳で鍛え上げられたそのしなやかな筋肉と程良く焼けた肌からははち切れんばかりの生命力が感じ取れる。
 好みか否かで言えば十分ストライクゾーンに入っている。あと数年もすれば垂涎するほどに甘く香しい果実が実るだろう。だが、親友として接する限りそういう気を起こして不都合を起こすのは嫌なので、意図的にそういうことを考えないようにしている。

 明るく社交的な奴だから、もしかすると守谷とも話したことがあったのかもしれない。いや。普通、クラスメイトの名前くらいは憶えているものなんだろうか。
 だが、必ずしも僕だけが悪いというわけではなさそうだ。休み時間は席を外しているかヘッドフォンをかけて文庫本を読んでいるかのどちらかで、誰かとつるんだりしているところは見たことがない。クラスの暗いグループにすら属さない、底辺中の底辺。まるで存在感がない。どちらかといえば輪に加わろうとしない彼に非があるのではないだろうか。それどころか体育の授業に出ないのは大問題だろう。
 休み時間にはどこに行っているのだろう。昼食はどこで食べているんだろう。他のクラスに友達がいるんだろうか。

 もし行くとしたら……




「ここだろうな」
 ドアを開けると弁当箱を広げた守谷が居た。雨上がりの屋上は所々に水たまりがまだ残っていた。
「びっくりした。どうしたの? またタバコ?」
 そして彼は案の定一人きりだった。
「まぁ、な」
 何となくキミの事が気になりました、とか言えるはずがない。
 そもそも自分自身が何故ここに来たのか分からない。何故彼を探したのか分からない。彼の事を憶えていなかった罪悪感? それはないだろう。だとしたら何なんだ?
「御崎くんはお昼を食べた?」
「いや」
「じゃあ早く食べなきゃ。野田くんが待っているんじゃないの?」
「ああ、一服してからな」
 本当は別にタバコを吸いたいわけでもなかった。タバコというのはこういう口実に使えるから便利だ。大人もきっとそういう風に生きているんだろう。
 彼は黙々と弁当を食べ続ける。ヘッドフォンは首にかけている。
 別に、暗いっていう感じはしないんだけどな。
「うまいか?」
「え? あ、あー、うん。そこそこ……」
「かーちゃんに悪いだろ。うまいって言ってやれよ」
「うちのお母さん、あんまり料理上手じゃないし」
「そうなのか」
「でも料理するのは好きみたい」
「……一番迷惑なパターンだな」
 こうやって話しかければそれなりに返してくれるし、単にコミュニケーションというものに慣れていないだけなのかもしれない。
「お前、何でこんなところでメシ食ってんの?」
 箸が止まる。
「……一人の方が好きなんだ。あんまり、騒がしいのすきじゃないっていうか……」
「ふうん」
 自分からコミュニケーションを断つタイプか。
 損な生き方をしている。
「じゃあ、俺も邪魔ってことみたいだし、そろそろ行くわ」
「え? あ……そういう意味じゃなかったんだけど……。ごめん……」
「別にいいけど」
「―――御崎くんは、どうして僕のことを構ってくれるの?」
「それは」
 答えの出ない問いを自分の中で反芻した。
 夏の日差しに溶けてしまいそうな彼。
 他人との関わりを拒絶する彼。
 今まで名前さえも知らなかったのに。
「気まぐれってやつさ」
 かわいそう、という言葉は嘘とすり替わった。
 きっと庇護欲だ。雨に濡れる子猫をそっと抱きかかえるように、心細く生きている彼を助けてあげたいとそう思ったに違いない。
「じゃ、また気が向いたら来てやるよ」

 そんなのは詭弁だ、と後で思い知る。

「そう。待ってるよ」
 そう言った彼の力ない笑顔は、静かな音を立てて僕の心を倒錯させた。






 サタデーナイトフィバーというわけではもちろんないけれど、土日休みの彼氏とは金曜日の夜に会って、そのまま泊まる事が多い。
 正味な話、未成年に毎週のように外泊させるというのは一体どういう了見をしているのだろう。うちの両親が放任主義であるからいいものの、訴えられたら敗訴確実じゃないか。この脳みそ十代の三十路男は今日もしまりのない顔で僕を迎えてくれた。
「今日何食べよっか」
「……別に。何でもいいし」
「じゃあ焼き肉行こうよ焼き肉ー」
「また? 先週も行っただろ」
「いいじゃん。行こうよ―。今日は奮発してご飯おかわり自由にするからさぁ」
 別に奮発してない。
 もちろん語尾が伸びている方が三十路男である。
 付き合い始めて一年とちょっと。イベントごとは一通り済んで、そろそろ一山きている。会う度に胸焼けを覚えるのは、きっとこの人が生クリームのような人だからだと思う。初めはその真っ白い純粋な心と甘い容姿につい酔いしれた。年上でありながらどこか頼りない部分も自分の父性をくすぐり、自分がついていなければなどと考えたこともあった。
 だがそれは次第に不満へと変わっていく。相談事にも真面目に取り合ってくれないし、その割に仕事の愚痴は多い。外泊を拒むとしばらく不機嫌になる。けれど都合が良いときにだけ一方的に甘えてくる。
 欲望のはけ口なのは、お互い様かもしれないけれど。
 最近、溜め息をつく回数が増えた気がする。僕は僕とてこれから受験のこととか色々あるというのに、こんな木偶の坊の世話までしていられないのだけれど。そういうところを考えたらいっそのこと今別れてしまった方が自分のためになるのではないだろうか。
 心では分かっているものの、その言葉を口に出す勇気はなかった。ケンカでもしてしまえば言いやすいけれど、糠に釘というか、ケンカをふっかけてもするりとかわされてしまう。そういう世渡り上手なところがまた腹立たしかったりする。
「あーそれ、おれが焼いてたのにー」
「育ち盛りに譲れよな。腹出ても知らないから」
「それ気にしてるんだから言わないでよ……」
 年上だからと期待しなければいいんだろうか。
 期待しなければ傷つくことはないし、簡単に幸せも感じられる、と誰かが言っていた。もしそれが処世術ならば、僕らはいつも最悪のことしか考えていなければならないんだろうか。訪れる幸せを夢想することは許されないんだろうか。
「はーい、なお君野菜も食べましょうねぇ」
「いらない。タマネギいらないから。翼が食えよ」
「おれがタマネギ嫌いだって知ってるだろ!」
「俺だって好きじゃねぇよ!」
 そんなことを考えるのはやめにしよう。今はただ、焼き肉がおいしい。それだけでいい。

 食事を終えて、コンビニで飲み物を買ってから彼のマンションに寄った。彼の家に上がるのは二週間ぶりくらいだろうか。
「今エアコンつけるね」
「うん」
 部屋はほどほどに散らかっているものの、目を瞑れる程度には片付いていた。少なくとも有機的な汚さは見当たらない。初めてこの部屋に上がったときは、他人の家の匂いがしたのに、今はもうそれを感じる事もない。
「どうする? 先シャワー浴びる?」
「いい」
 冷たい空気が当たるベッドの上に腰を下ろす。こちらにやってくる彼と視線が合った。
「じゃあこっちが先?」
 彼の目つきが一瞬にして変わる。彼がベッドに手を置き、腰をかがめると、唇が重なった。
「先にシャワー浴びてこいって意味だったんだけど」
「そうなの?」
 そこにあどけなさは見当たらなかった。こういう時だけ、年上ぶる。そして僕も、こういうときだけ年下ぶる。
「ニンニク臭い」
「なお君もタマネギくさいよ」

 唇を重ね、肌を重ね、お互いの弱い部分に触れ、体液を交え、奥深くまで探り合う。そんな行為に意味を求めてはいけない。虚しくなる前に果てればいい。一時の快楽に身を委ね、思考という思考をを全て捨てればあとはもう簡単だ。相手のどこにも触れて良いという権利を行使する悦楽に溺れればいい。相手の求めるまま全て捧げればいい。薄皮一枚など何の邪魔でもない。誤魔化せ誤魔化せ。前も先も何もない。全てはまやかし。一寸先は闇。一寸前も闇。今この時だけがある。果てろ果てろ。早く早く。今








 冷静になったら二人とも無言のままシャワーを浴びる。彼が浴びて、僕が浴びる。身体に染みついた気だるさと体液のにおいを熱いお湯で流す。身体が温かくなるにつれ、脳はどんどんと冷えて行く。
「なにしてんだろ、俺」
浴室のタイルに額を押しつけ、目を瞑る。お湯が肌を打ち、伝って行く感覚が気持ちいい。それでも心の奥深くにある芯がほぐされることはない。快楽に身を委ねたところで、結局はこうなるんだ。
 この虚しさをどうすればいい。この押し寄せる高波をどうやり過ごせばいいんだろう。
 蛇口のハンドルを捻ってお湯を止めた。身体を拭いて呼吸を整える。
「上がったよ」
 彼はベッドの上でテレビを観ながら缶ビールを飲んでいた。
「おー。ジュース、冷蔵庫の中に入ってるから」
「うん」
 愛が足りないとわめけばいいのか?
 彼の横に腰を下ろす。
「…………」
 こういう事のあとは会話がない。ただテレビを眺めて、その空白を誤魔化す。誤魔化し誤魔化し、関係をつなげていく。それはもはやボロボロに朽ちた縄のよう。

――――でも、そんなもの切れてしまえばいいって、思ってたんだろう?

 別れを切り出してくれたら、と思っていた。それでもこうしてずるずる続けているのは、誰かとの繋がりが切れてしまうことが怖いからに過ぎない。ぐらぐらと、ゆらゆらと、どうすることもできずにぐずぐずと身体だけの関係を続けていく。
「ジュース飲まないの?」
「……ビールちょうだいよ」
「だめだよ、未成年なんだから」
「未成年者に手ぇ出してるやつに言われたくないです―」
「双方同意なんだからいいだろ」
 ごくりと喉を鳴らしてビールを飲み干した。
 彼は僕がタバコを吸うこともあまり良い顔をしない。それが真っ当な反応だが、こういう時だけ妙に大人ぶった対応をしてくる事がちょっとだけ癪に障る。
「俺が訴えたら確実に負けるんだからな」
「おー怖」
 背中を蹴っ飛ばしてタオルケットを頭から被った。
「もう寝るの? まだ十時だよー」
「いいんだよ! 寝るの!」
 眠気はまだ訪れなかったけれど、起きていたってすることなんてないのだから、もう何も考えられないよう眠ってしまおうと思った。強引に目を瞑る。そこに屋上で見たあの景色と、『彼』の横顔を見た気がする。







 翌日の昼休み、彼はやはりそこに居た。
「やあ、いらっしゃい」
 彼も少しずつ僕に慣れてくれたようだ。
「よう。相変わらずシケた面してんな」
「そ、そうかな。ごめん……」
「いや、謝んなくていいけど」
 彼は立ち上がって、また慣れた手付きでドアの鍵を開ける。扉が開くと薄暗い階段に光が差し、その向こう側に夏の青い空が見えた。その二つの対極的な空間を繋ぐドアはさながらあのロボットの道具のようだ。

 結局、一泊だけしてそのあとは家に帰ってしまった。どうにも最近あいつの側にいると余計なことばかりを考えてしまう。
「そういう御崎くんもあんまり浮かない顔しているね」
「まーな」
 こいつに相談をしたところであまり有益な答えは得られないだろう。そもそも
「お前って彼女いたことあるの?」
「…………………………………………………………ない」
 顔を上げず、本に視線を落としたまま答えた。だがその視線は文章を追うことなく、実に奇妙な軌道を描いているように見える。心なしか顔も赤い。そりゃそうか。このテの話題は苦手そうなタイプだからな。
「だよなー。でも好きな奴くらいいるんじゃないの?」
「い、居ないよ。別に」
「杉沢なんてかわいいよな。大川はちょっとケバいけど、結構美人だし。逆に原は結構化粧で変わると思うな。どう? どうよ?」
「わ、わかんないよそんなの……」
 こいつをからかうのは案外楽しい。しかし高校生にして好きな女の一人も居ないというのは。発育不全なのかそれとも。
「もしかして女に興味ないとか?」
「…………」
 彼は何も言わず、少しだけ不機嫌そうな表情のままページをめくる。
 発育不全なのか、それとも《・・・・》


「カレーパン、食うか?」
「御崎くんのお昼じゃないの?」
「調子づいて買いすぎたんだ」
 レジ袋からパンを次々と取り出す。カレーパン、ウィンナーロール、コロッケサンド、メープルメロンパン、クリームデニッシュ。
「……メープルメロンなら食べる」
「バカ、それは俺んだ」
「じゃあクリームデニッシュ……」
「甘いもの好きか」
「うん。っていうか、ご飯はもう食べたし」
「そうだよな。じゃあほら、カレーパンやるから」
「……意味が分からないよ……」
 まるでお預けを喰らう犬みたいだ。僕は笑いながらクリームデニッシュを手渡した。
「ありがとう」
 彼はビニール袋から取り出してひとくち頬張った。中からクリームが溢れ出る。その光景にほほえましさとわずかなあの香りを感じつつ、僕はウィンナーロールを頬張った。
「……今日は、野田くんとご飯食べなくて良いの?」
「あいつは今日水泳部のミーティング」
「ふうん」
「それにここなら食後に一服できるしな」
「あはは。そうだね。そうするといいよ」
「そうさせてもらうよ。お前も別に気ぃつかわなくていいから。普通に本とか読んでていいし」
 僕がそう言うと彼は頷き、ヘッドフォンを耳にかける。MDを取り出し、再生する。
「本当にやるところがお前のすごいところだよな」
 デニッシュを片手に本を読む。遠くで蝉が鳴き始めた。校舎の騒がしさもここまでは届かない。あの空間が嫌いというわけではなかったけれど、こんなにも落ち着いた昼食というのは珍しい。なるほど彼がこの静けさを好むのも肯ける。
 穏やかに時間が流れる。腹だけでなく、もっと他の部分が満たされていく。こんな感覚はいつぶりだろう。
 横にいる彼は相変わらず。思い出したようにデニッシュを小さくかじりながら、読書に没頭している。

「まぁ、何かと面倒くせぇ世の中だよな」
「………………………………」
「お前がそうやって本と音楽の世界にどっぷり浸りたくなる気持ちは分かる」
「………………………………」
「だけど体育の授業に出ないっつーのはどうなんだ」
「………………………………」
「そりゃまぁ俺だって数学嫌いだし、取りたかないけどさ。一応金払って来ているわけだし。ほとんど義務教育みたいなもんなんだし。そこはさぁ……」
「………………………………」
「………………………………」
 聞こえているわけがないのに。
「アホくさ」
 時計を見るともうすぐ昼休みが終わる頃だった。ヘッドフォンの耳当てを引っ張って
「俺行くから」
 離す。
「痛いよ」
「お前もとっとと来いよな」
「うん……」
 ゴミの入ったレジ袋を放り投げる。
「お前にやるよ」
「え? これ」
 メープルメロンパンは結局譲ることにした。
「じゃ」
「御崎くん」
 ドアを閉めてしまったので、その続きは聞くことができなかった。





「おっっせぇよ。いつまで踏ん張ってんだよ」
「やー、スマンスマン」
 野田は窓に備え付けてある手すりに背を預けながら悪態をつく。
「で、ハライタは治まったわけ?」
「まぁな」
 全部嘘だった。水泳部のミーティングなんて昼休みにあるわけがない。パンを多く買いすぎたのもわざとだし、食後に一服する習慣もない。全てが全てあそこへ行くための口実だ。
 僕はいつだって平気な顔をして嘘をつく。同性愛者であることを秘めて生きる覚悟をした時からあらゆる事態を想定して嘘を用意し続けた。それはもはや嘘を越えて自分の中の真実とすり替わってしまいそうになるほどだった。
 そんなわけない、と一言言うだけで済んだのに、あいつは言わなかった。
――――不器用なやつ。

 それにしても、何だかちょっとだけ不思議な感覚がする。そういう人間には数知れず会ってきたけれど、身近にいた人間がそうであったと知るのは初めてだ。遊び慣れたゲームで隠し扉を見つけてしまったような感覚に近いかもしれない。その扉の向こうにあるのは、平凡なアイテムか、レアアイテムか。はたまた全く別のゲームが始まるのか。

 鞄を開けて教科書を取り出そうとしたとき、携帯のランプが光っているのが見えた。基本的に携帯電話に類するものを持ってきてはいけないことになっているので、高校の友人が送ってくることはないだろう。あっちの友達だろうか? と思って開いてみると、彼氏からだった。

『きょう定時であがる 会えるか?』

 このタイミングで会う事はかなり珍しい。受信時刻は十二時五分。マナーモードにしていたので気付かなかったようだ。昼休みは過ぎているので夕方まで返信はしてこないかもしれないが、一応返信する。

『了解。時間はそっちに合わせる』

 送ってしばらくすると返信が届いた。そこには時間と場所と『よろしく』とだけ書かれていた。

 何だろう。急を要する事なのだろうか。
 心臓がせり上がる。
 もしかして、もしかするのだとすれば……?



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