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 マールトは僕らにとって、神さまみたいなものだった。
 あの頃、無関心で無気力だった僕が心から愛したロックバンド。
 そして彼との共通言語。

 都会でもないし田舎でもない、不便とは思わないけれどもどこか退屈なこの街で、僕らは単調な毎日を当たり前に重ねていた。
平凡だけれど誰も何も一つも待ってくれはしない。勝手に時間だけが過ぎ、気付けば僕も高校二年生。どちらかといえば目立たない僕は何かに情熱を注ぐこともなく、卒業までの長いようで短い日々をただ食いつぶしているのだった。
 だからといってそんな人生に嫌気を刺すほどわがままな性格ではなく、平穏な日々が流れて行くことには諦観にも似た安堵感を持っていたこともまた事実である。
 悩みと呼べるほどの悩みもなく、苦労と嘆くほどの苦労もない。それはとても幸せなことではないのか。
 幸福であればあるほどその後にやってくる反動は大きい。心を震わすような感動があれば、自ずと肩を震わす絶望が待っているというのはこの世の摂理。
 だからまぁほどほどであればそれは良いのではないか、と齢十七にして至っている。

 そんな僕がマールトに出会ってしまったのは高校二年のゴールデンウィークの最終日だった。駅ビルのCDショップに立ち寄った僕はうろうろと店内を歩き回っていた。別に目的があって入ったわけではない。ただ待ち合わせの時間まで本屋かCDショップのどちらかで暇つぶしをしようと思っていただけのこと。そして、エスカレーターを上って最初に見えたのがCDショップの方だったから入ったまでのこと。
 これが例えば気まぐれで本屋の方に入っていたら、僕はマールトに出会わなかったのだろうか。悩みも嘆きもない代償として、スポットライトの当たらない舞台袖のような、始まりもしない祭り会場のような高校生活を送っていたのだろうか――などというありがちな『もしも』のことなど、考える価値もないだろう。
 僕に訪れた避けようもない現実はマールトに関係なく存在していたのだから。

 売り場をうろうろと回って、時々試聴コーナーのヘッドフォンを耳に当てた。どれもこれもテレビでよく耳にする音楽ばかりだが暇つぶしには丁度良い。しかし丸々聴くにはあまりに手持ちぶさたで、サビが終わる頃には停止ボタンを押していた。
 近頃人気のロックバンドも、僕にはあんまりピンとこないのだ。
 良い曲だとは思うけれど、それは多分毎日聴きたい音楽ではない。テレビで流れていたら聴くとか、そういう受動的なものでしかなかった。
 試聴機に置かれたアルバムを手に取り、ちょっとだけ眺めては陳列棚に戻す。ふと横に目をやると、最近人気のロックバンドの隣に見知らぬバンド名のCDが置いてあった。手書きのポップには妙に丸い文字で彼らのことを紹介している。

『期待の新人インディーズデビュー! 四人組ロックバンドmalt(マールト)
 荒削りながらも熱い彼らのロック魂。若さ故の苦しみや不安を力強いメロディに乗せて歌う彼らはまさに不死鳥の雛。将来性バツグンのファーストミニアルバムは買って損なし! オススメは一、三、四曲目』

 不死鳥の雛、のくだりで思わず失笑してしまった。結局メジャーでデビューできないんだからきっとそんなにうまいものでもないだろうに。
 そうは思ってもここまで褒めちぎっているのだからそれなりの理由があるのかもしれない。興味本位でヘッドフォンをつけて、再生ボタンを押す。
 数瞬、ギターの音が頭の中で爆発した。前の人の聴力に問題があったのか、はたまたいたずらだったのかは知らないが音量のつまみが最大になっていた。肩をすくめてつまみに手を伸ばした頃に歌が始まった。
 イントロの激しさとは対照的にボーカルは落ち着いた低音の響く歌声だ。それでいて熱のこもった、湿度のある声だ。高音の伸びも良く、滑らかで艶がある。ベースの重低音に合わせて鼓動が高まり、ドラムの音に合わせて体が震え、エレキギターのメロディラインが肌を粟立たせる。
 確かに技術的な面では荒削りなのかもしれないが、不格好なその形はいびつな僕の心にぴたりとはまった。
 放心している間に一曲目が終わり、二曲目へと進む。店員にオススメされていない二曲目も僕の全てをわしづかみにした。果てしない高揚感が津波のように押し寄せてくる。
 なんだこれ。
 CDケースを両手で握りしめ、全五曲を通して聴いてしまった。
 アルバムタイトルは『not equal』――。
 気付いた時にはもうCDの会計が済んでいた。それは差し詰め海から地上へと出てきた古代生物のよう。陽の光を燦々と浴び、その身体には新しい希望に充ち満ちている。地表の空気と太陽の熱とを肌で直にかみしめていると、ポケットの中の携帯が震えた。
『from:高樹浩二
 sub:無題
   着いたよ。いまどこー?』

 ああそうだった。僕は待ち合わせをしていたのだった。ふわふわとした頭のまま、メールの返信をする。
『やばいわこれ』
『どうした。今どこだよ』
『タワレコ』
『五階かよ。早く降りてこい』
『電器屋。電器屋に行く』
『何で?』

「それで、どうしてCDプレーヤーなんだよ」
「MP3プレーヤーじゃ今聞けないだろ」
「家に帰ってからゆっくり聞けばいいのに」
「そういう問題じゃないんだ」
 興奮して冷静な判断力を失った僕は、勢いのまま電器屋へと走り、一番安いポータブルCDプレーヤーを購入した。予定外の大出費ではあったけれど、後悔はない。
「だからって昼飯のレベルが下がるのはなぁ」
 高樹はそう愚痴ったけれど。
「別にいいじゃん。いつものサイゼになっただけだろ」
 そこは見慣れた内装のサイゼリア。いつも通っている高校近くのサイゼリアではないけれど、メニューも食器もディスプレイもサービスも同じ店だった。ひょっとしたら従業員すら同じ人だったりするのかもしれない。
「デニーズが良かった」
「そこはせめてロイホとか言えよ」
「ロイホとかマジ都市伝説」
 そもそもロイホなんてこの辺りにないので選択肢にあがるべくもないのだが。そう考えればファミレスヒエラルキーではデニーズが最上位にあたるだろうか。
「それで何? 藤埜がそんなにはまるって珍しいな」
 僕はこれ、と言って黄色い袋からCDを取りして見せた。高樹は小首を傾げてジャケットをしげしげ眺める。
「モルト?」
「マールトって読むんだって」
「何語だよ」
「さあ?」
 マールトが何語なのかは家に帰ってから調べればいい。
 CDプレーヤーの梱包を解いて電池をはめ、高樹にイヤフォンを渡す。CDをケースから取り出すときの固い感触がより胸の鼓動を高める。新品独特のCDがたわむような密着感。
 セットを終えて、プレイボタンを押す。
 いま高樹の耳元ではマールトの曲が鳴っているはずだ。表情は微動だにせず、そこから彼の印象をうかがい知ることはできなかった。
 気に入らなかっただろうか。だが、イヤフォンを外そうとする気配はない。ジンジャーエールで喉を潤して一曲目が終わるのを待つことにする。突然彼の左手が動いた。僕は思わずむせてしまう。
 彼が手を伸ばしたのはCDのケース。正確に言うのであればCDケースに収まったブックレットだ。
 ああ、歌詞か。そういえばマールトの音楽や声に魅力を感じたので、歌詞については意識していなかった。リズムとかそういう面では耳心地が良かったけれど。
 収録されてるのは五曲。だいたい十五分くらいでCDは回転を止めた。彼の最初の一言を待つ。
「いいね」
「だろ?」
「声も良いし、歌詞も結構良くない?」
「高樹はどれが好きだった?」
「うーん、この中では『デバウア』かな」
 デバウア。このCDの一曲目に収録されている曲。僕が一番初めに聴いて、一番気に入っている曲だ。
「やっぱり? 良いよなぁこれ。デバウア……どういう意味なんだろう」
「devour じゃないのか?」
「どういう意味?」
「むさぼり食うとか、がつがつするとか、夢中になるとか?」
 なるほど、と得心する。それは確かに何事にも無関心で無感動だった僕を夢中にさせた。タイトルに相応しいだけの力が込められていたと言えよう。
「藤埜、これ貸してよ」
「明日な。俺だってまださらっとしか聴いてないんだから」
 好意的な感触に胸をなで下ろした。それなりに気の合う僕らだけれど、音楽に関する話はあまりすることがなかった。時にこういう趣向の違いというものは軋轢を生み出すきっかけとなりうる。たとえ仲の良い友達であっても、何を良しとするかは必ずしも一致しない。
 けれど一致したときの喜びはこの上ない。それは自分と彼とが近しい人間であるということ。全く正反対の相手に惹かれるという人がいるけれど、僕はどちらかと言えば自分に近い人と一緒にいた方が楽しいと思うのだ。
 互いに刺激しあうとか、己を高めるとか、そんなこととは全く無関係な僕らである。だが、一体それの何が悪いというのだろう。たとえばこのファミレスのように、変化の乏しい空間も居心地の良さの一つではないだろうか。
「お待たせいたしました」
 そしていつものミラノ風ドリアとセットプチフォッカが運ばれてくる。ドリンクバーを入れて五百四十八円。何ともお財布に優しい価格だった。
 高樹はというとディアボラ風ハンバーグステーキにライスというラインナップだ。焼けた鉄板の上で湯気を立てるハンバーグが何とも唾液を誘う。ミラノ風ドリアに文句はないが、他人の芝の青さが憎い。これが無駄遣いをしなかった物の選択肢なのであろう。
「サイゼリアに来てミラノ風ドリアを食べないのは邪道だ」
「こっちも十分王道だろ?」
「目玉焼きよこせ」
「嫌だよ。藤埜も半熟卵頼めば良かったじゃんか」
「うるせえ今月はもう無駄遣いできないんだよ」
「CDプレーヤーなんか買うからだろ」
 揉めに揉めてようやくフライドポテトをひとつだけもらう事ができた。持つべきものはやはり友である。
 それでは
「いただきます」


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サイゼリアで何を頼むか、ということを考えるのにかなり時間を費やしました。
価格と量のバランスがね。
高樹自信の財布の中身も裕福な方ではないのですが
元々ファミレスで千円弱くらいは予算を見積もっていたのでブルジョワメニューに。