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→NEXT ←PREV ←MENU 早朝の町を自転車で駆け抜けていく。 まだ朝陽すら昇っていない、暗闇に満ちた時間だった。 熱を全て吐ききった道路はひんやりと冷たく横たわっている。風を切る音だけを聞きながら、僕はペダルをこいでいた。人はおろか車の気配すらしない死体のような町をじぐざぐと抜けていく。 ただ、虫の声だけがどこからともなく聞こえてきた。 秋の訪れの向こうに、早くも冬の凍てつく寒さを予感していた。その頃は受験で忙しくなることだろう。どうだろうか。忙しさに没頭すれば僕の悩んでいることなんてどうでもよくなってしまうのだろうか。 そして、ぎくしゃくしたまま卒業して、それぞれ新しい生活に身を浸し、新しい人間関係の中で過去の人間関係など忘れていくのだろうか。 それも案外楽しそうで、やっぱり悲しかった。 勾配のきつい坂の上を目指す。 重いペダルを踏み、足が破裂しそうになるのを堪えながらもこぎ続ける。 けれども中腹までたどり着くことなく、足を地面に下ろした。実に情けない。 気晴らしも兼ねて、何も考えずに写真を撮ってみたかった。こんな時間にカメラを持って出かける理由はそれだけだ。 ただ楽そうだからという理由で入った写真部だったけれど、実際にカメラを手に撮影して、それを印刷して誰かに見せるという行為は思っていよりずっと僕の心を沸き立たせてくれた。 これがいわゆる自己表現というものだろうか。 今まで全く創作といったものに縁がなかった僕としては、実に興味深い体験であった。自分が撮った物を見てもらうのはもちろん、他人が撮った写真を見るのも良い。 それはその人が見ていた世界だ。望遠や特殊なレンズを使う事もあるだろうけれど、その人と同じ目線を覗くことができる。見落としてしまいそうなものを見つけたり、ありふれているものを魅力的に見る方法を知っていたり。 そういうところを共有できるのはきっと写真が一番だから。 だからその感覚を思い出したかった。 僕が見ている世界が果たしてどんなものなのか。僕が何を見ていて、何を想っていて、何を大切にしているのか。それをただ確認するために。 何も考えずにとは言ったものの、文化祭の展示を意識しないわけにはいかない。そこで僕が撮れそうだと思ったのは『藍』。夜明けの空を撮ることにした。 メッセージ性などはかけらもなく、ただ自然の雄大さを、美しさを表現できればと思った。そうすることで隙間風吹く僕の心も少しは癒せればいい。 癒せればいいけれど、僕の体そのものが悲鳴を上げている。 誤魔化すことも、もう限界だ。 この町で、一番見晴らしが良いところまで登ってきた。額に湧いた汗をぬぐって時計を見る。日の出はもうすぐ。 朝の澄んだ空気は澱んだ胸の中を洗い流してくれる。 そして明け方の太陽はいつだって早起きしたひとに優しく降り注いでくれる。 空が白み始める。それと同時に虫の鳴き声は、次第に鳥の鳴き声へと変わっていく。 朝が夜を押し上げる。空の色が移ろい、新しい一日がいま生まれようとしている。 生まれたばかりの太陽は羽化したばかりの蝉や蝶のように白く優しい球体だ。目を焼くような激しさも、大地を焦がす強さもない。 ただ、神々しさだけがそこにある。 飲み込まれてしまいそうだ。雄大な眺めに見とれている自分に気付き、慌ててシャッターを切る。藍色に広がる世界。薄れゆく星々。その先にある宇宙を夢想する。何もない世界。孤独に満ちた、生き物の居ない世界。 けれど、そこには悲しみもない。何もなければ悲しみも生まれない。誰も知らなければ孤独も分からない。 ある種清らかな、天国のような場所とも言えるだろう。 宇宙のことを考えるといつも怖くなるって思考が止まる。自分が認識できる世界の遙か先。その暗闇の奧に何があるのか。そもそも暗闇とは何か? 何もないとはどういうことなのか? その疑問を突き詰めていくと、存在するとはどういうことなのかということまで分からなくなってくる。今こうして空を撮っている自分、宇宙について考えている自分というものさえあやふやになる。ここにあって、どこにもない。 夕刻と紛えるほど東の空が赤く染まってきた。 その甘美なグラデーション。幾星霜も繰り返されてきた日々の営み。変わらぬ日常。生き物すら存在しなかったころから一度も欠かすことなく起きている現象。 太陽は再生するように輝きを取り戻し始める。こんなにも温かいのに遠い光。決して手は届かない。 涙がこぼれたのは、その赤と藍とが僕の心を打ったからではなかった。 あの日、マールトのライブに初めて行った日の翌朝。 二人でベランダに座って眺めたあの朝焼け。勉強なんて目もくれずに語り合った。 「結局眠れなかったな」 「お前が起こしたんだろうが」 「藤埜だって寝ようと思えば寝られただろ?」 「揺すり動かされて寝ていられるほど無神経じゃねーんだよ。高樹と違ってな」 「ひでえなー」 「あーでも、朝焼けすごいな」 「うん。すっげえ綺麗」 「カメラ持ってくれば良かった」 「いや、いいよ。何かカメラに撮ったらもったいないし」 「なにそれ」 「レンズ越しに見るより、このまんま見てたほうが綺麗だよ。きっと」 「そうかね」 「そうそう」 あの日に戻ることはもうできない。あの時の何もかも満ち足りていた気持ちは、もう二度と僕の胸の中で芽生えることはない。それを僕は自分の手で摘み取ってしまったのだから。軋むほどにカメラを握りしめ、頭を守るように小さくうずくまる。小刻みに体は震え、声にならない声がこぼれ落ちる。 どうしてこんなことになってしまったのだろう。 いいや。全部自分で壊しておいて、何かのせいにするのはおかしい。間違っているのは僕だ。そしてそれを受け入れるつもりだったはずなのに。自分の弱さに愕然としている。全てが全て自分の甘え。変わらないものにすがりついて生きていくことなどできはしないのに、僕はそれを望むのか? 堂々巡りも良いところ。いつまでも同じ事で悩んでいる。 もうやめにしよう。 諦めよう。 ただ、諦めるのならば一番僕の傷つくやり方で、周りの人間が満足する形で終わらせよう。 僕は携帯を取り出し、送信履歴の一番上にある相手にメールを送った。 『チケット、まだ残ってる?』 →NEXT ←PREV ←MENU |